2月17日(水)

家族以外との身体的接触を断たれて約一年、ヨーロッパと違ってもともとこの国にはハグやらキスの習慣がないので大勢に変化はないが、どこかスースーする気がする。接触だけでなく、マスクに隠されて顔まで見えないという状況は、ブルカを纏った女たちのいるイスラム世界のようだ……などと考えていると、なんと目と鼻の先に、過剰な身体的接触の解放区が拓けているではないか。

からだとからだが
無理矢理
切れ字されて

こころはここに有らず
字余りだ。

海が
ざわついている。こころとからだを
分け隔てる、ひとすじの
髪の向こうで

溢れる
雲の、句跨り。

女性は
何人いますか?
五人?十人くらいいるのかと思った。
五人います。

(笑いが起こる)

私共の
恥。悪口。ご出身。競争
意識。女性は。

いますか?

あの夏、
沸騰するスクランブル交差点の真ん中で
絡み合っていた、舌と
舌……

ディープ・キスは
基本料金に入っている。オプション(三千円)で
即尺。
ごっくん

わたし猿。
になり
たい風に啼き、
たい

苦から空へと跨りながら、まだ
擦ってる

無季の如月。

   

*令和3年2月3日JOC臨時評議員会での森元会長の発言からの引用があります

横浜・曙町
四元康祐



2月16日(火)

ひとつの雲もない空の奥へ
鰐がのそりと出かけていき
温まった尻尾で戻ってくる

すこし前から山にいる
鰐は端末に小説を仕込んで
わたしは〆切を二つ持って

木づくりのベッドの居心地
腹ばいと壁の光跡と蓮花香
ときどき音を立てる膝関節

検温計に前髪を上げるたび
35度しか出せない体からも
詞の蒸気はうっすらと立つ

輪郭が霞む冬枯れの山から
春の方角へ寝返りをうつと
窓いっぱいに広がる野焼き

わたしたちずっと冬だった
焼き払われた地面の下から
じき新芽たちは立ち上がる

ひとつの詞も
旋律さえ持たない
ただ光がふるえるばかりの
うたを
やしないとして

八ヶ岳
覚 和歌子



2月15日(月)

洗面所の透かしガラスから
ウグイス色の鳥が梅を啄んでいるのを見た

ずっと花びらを啄んでいると思っていたけれど
芯にくちばしをよせて蜜を吸っていた

ウグイス色の鳥はウグイスではなくメジロだった
ウグイスはもっと薄茶色の鳥で
ウグイス色はメジロのものだった

一昨日、大きな揺れが福島を中心に起こって
あちらこちらにぽつぽつと声をかけた

そういえば10年前には声をかけられる側だったのに
今は別の岸にいる
どの岸にも心は置いておきたくて
書くということも
ひとかけらの心を置いていくことのように思う

そういえば昨年はオリンピックをやる予定で
そういえば今年は東日本大震災から10年で
そういえばオリンピックは東日本大震災の復興という名目で
ゆがみにゆがんで埋もれていった

東京で一人
家のテレビをつけて見た
あの赤さを
あれはなんなのだろうと思っているし
まだ何も許していない

日々のひずみが皮膚のひずみに変わって
皮膚という皮膚にありったけ爪を立てて
神話から遠ざかって白ませた

震えが届けば
どこだって地続きなのだから
等しくのしかかる
何も何も何も許してはいないと
ガジリガジリと歯を立てている

見つめるという時間が私にはある

私と同じ髪型をした10歳のあの子が
ピンクのはさみを手首に当てて
ちりちりと皮膚を削ろうとしていた

「だめだよ、そんなことしたら悲しいよ」
「なんで。私は悲しくないよ」
「あなたがあなたを大事にしなかったら私が悲しいんだよ」

そんなことを言って
とても消極的にかるた遊びをした

大分・耶馬溪
藤倉めぐみ



2月14日(日)

昨日SNSで見かけた
「世界が元気になったら会いましょう」という言葉
あの日から
わたしたちは
世界の熱を計り
手指を洗ってあげ
世界を静かに寝かせようとする
そんな日々を送っているのかもしれない
もう1年が経とうとしている
わたしたちは
あの日から
少しだけ髪が伸びた

福岡・博多
石松佳



2月13日(土)

今日のホームルームでは学級委員長を決めます。学級委員長とは、このクラスの代表、みなさんの代表ですから、みなさんと議論をして決めていきたいと思います。どんな人が学級委員長にふさわしいと思いますか。
教師からの問いかけに教室は静まりかえった。自らが指されることを避けたい一心の生徒たちは一様に目を伏せている。その様子をにやにやしながら教師が眺めている。その顔が腹立たしかった。廊下側、いちばん後ろの席にいた私は、手を挙げて発言した。
女子がいいと思います。
なぜそんなことを言ったのだろう。学級委員長の仕事とは、クラスの代表とは名ばかりで、
教師からの頼まれごとを引き受けたり、学校行事で生じる面倒ごとを差配したりといった雑務が大半である。そんなつまらない役割は女に押し付けてしまえばいいと思ったから? いや当時の私にそこまで巡らせた考えがあったはずはなく、ただ単に、誰かが何かを言わなければ議論が進まないと思ったから。仮に自分の発言によって候補が女子に絞られてしまえば、自分が選ばれることもなくなるだろう。その程度の思惑だったのだろう。私の発言の直後、窓側のいちばん前に座っていた西村さんが、私の方を振り返ってぎろりと睨み、それから手を挙げた。
男子がいいと思います。
私と西村さんの発言をきっかけに、学級委員長にふさわしいのは女子か、男子か、喧々諤々の議論が巻き起こった、はずもなく、教室は再び静まりかえった。ここまでに出揃った意見はただ二つ。女子がいい。男子がいい。何も進展していない。しばし重い沈黙の時間が流れたのち、私の二つ前の席にいる湯本くんがおそるおそる手を挙げた。今度はなんだ。みんなが湯本くんに注目した。
ぼくがやります。ぼくがやってもいいでしょうか。
教室中が無言の歓喜の声で満たされた。湯本くんすごい! 是非湯本くんを学級委員長に! このクラスをまとめられるのは湯本くんしかいない!
こうして無事に学級委員長は湯本くんに決まり、その後、どういう経緯だったかは忘れたが、私と西村さんが副委員長を務めることになった。

以上は二〇年以上前のエピソードだが、ふと思い出したので書いておく。

東京・調布
山田亮太



2月12日(金)

あと締め切りまで7分しかないというのに
今日の詩を書かなければならないなんて信じられる?

今朝は8時に出かけて
9:15の最初の〆切
それは院生の実験の手伝い

次に12:00までに
研究費の経理の書類を出して

14:00までに
他の院生の学位審査の準備、
そしてそれを2時間かけて
Zoomで無事審査した

それで17:00までに
助成金の申請を無事出したとたんに
研究室体験の学生から17:00のZoom、それをこなす

細胞をうえつぎ脳のサンプルの電気泳動、
それをフィルターに写して抗体をかける

一番のポイントは今晩中しめきりの院生の
学位論文の直し、それはあと4分で出来るはず

なんてこった
中央線の終電まで
あと10分!

駅までは1キロ
タクシーはつかまるか?

東京・本郷
田中庸介



2月11日(木)

今朝
詩集を詰めた箱を渡した
相手は
この町で二年以上の間
詩のワークショップに参加してくれた人で
みんなで読んでね
、て本棚から選りすぐりの
おすすめ詰め合わせにしたんだった

古いマンションの
玄関の傍らには
ヒカンザクラの木が
毎年一月に花を咲かせて
この島では
スミレもイチハツも
年明けには会えて

咲いたら
散っても
ほのかな名残りが感じられて

引っ越しはからだがくたびれるから
ビタミンをと
柑橘や
向こうでよかったらと
この町で作っている辣油や
そして小さな手紙を添えた
クッキーの入った紙袋を受け取り

マンションの一階の窓ごしに
車で走り去るところを
見送った

これが
この詩が
沖縄に暮らしながら書いて
この島にいる間に発表する
最後の詩になるなんて

別れ方というのは
むつかしい
また来るから、て
いくら思ってもそう言っても
いなくなる

さよなら 沖縄

十年も住んだ
この詩が空気の日記のページの一隅に載る日に
ちょうど機上だ

沖縄・那覇
白井明大



2月10日(水)

喉を通過したものたちの
なきがらを
つぶして
からっぽに満たす

凍結した道に
うっすらと染まる白は
もっとも滑りやすいから
気をつけて 乗り遅れないように。

しずかなまま
原稿を送って
ぬくもりに代わる
ことばを探している

宿り木かとおもえば
鳥があつまっていく巣を
ひたすらに傍観者として
ゆびさして、

次第にひかりがあふれて
綿毛として雪が舞っていて
めんどうな出来事を
まきとっていく昼過ぎには

きみを育てるきみが
世界中で ゆびをさされる

北海道・札幌
三角みづ紀



2月9日(火)


女は

“寝てなさいよ!”と言って

出かけて
いった

モコを抱いて
白い車の後ろを見ていた

青い空の下に
西の山がいた

それから
浜風文庫に

” The door opened of itself. ” *

という詩を
書いた

今日は
松田朋春さんの詩の公開日だったことに気づいて

松田さんにメッセージを送った

広瀬 勉さんのブロック塀の写真 “塀 402:190910″と
工藤冬里さんの詩 “Sphygmomanometer”を

浜風文庫に載せた

昼前
保健所の女性から電話があって

体温と
血中酸素濃度を伝えた

微熱があり
右耳で高音が二重に響いていると

伝えた

空気の日記の最初の頃
谷川さんの”からっぽ”という詩を新聞で読んで

“詩は
からっぽの
平らな皿にのせた
空気か”

と書いた

いま
詩は

生のまんなかにある空気だと

言いたい

夕方
松田さんから”猫”という詩が届いた

猫も

空気のまんなかにいる

    

*twitterの「楽しい例文」さんから引用しました

静岡・用宗
さとう三千魚



2月8日(月)

今日こそ円盤に乗る派の公演に行けるとおもって千秋楽、チケット予約しようとおもったら昨日、前日の24時迄だったのだった。
あきらめて、昨日スパイラルでやってた「無言に耳をすますパフォーマンスフェスティバル『ZIPPED』」リアルタイムで見られなかったのでストリーミングでみる。
冒頭アナウンスで「できれば部屋を暗くして見てください」とあるが朝なので暗くすることができない。
百瀬文さんのは去年葛西の展示で見たやつだ。それの新バージョンとのこと。あれももう一年くらい前だ。まだコロナがあれじゃなかった。
石川佳奈さんのは石川さんが能をおもわせる無表情のお面かぶってどこからともなく聞こえてくる言い差しの声たちに反応するともなく反応している。
彼女から声が発せられることはなくどこからともなく聞こえてくる言い差しの顔のない女らや顔のない男らのいくつもの声たちを聴いている彼女が私であるような心持にもあるいは言い差している顔のない声の主(のひとり)が私であるような心持にも次第になってくる。
村社祐太郎さんの無言劇ではひとりの女性がもくもくとテーブルのようなものを組み立てている。
無言であるためにそれを観ている私のあたまのなかの声ばかりがあたまのなかで聴こえてくる。
テーブル面にあたるところが透明なアクリル板のようである。
テーブルとおもいこんでいたがパーテーションだったのかもしれない。
いずれにせよ、組み立てられたそばから解体されてしまう。水平にされることなく垂直のまま。
それでたいそう宙ぶらりんなきもちになる。
そうしている間にあたまのなかで声にならない、なにかが組み立てられ解体されたのだった。
あれらはいったいなんだったのだろう。
よくわからなかったのだけど、いずれもいまの空気の一断面を鮮明に舞台化しているように感じた。
ナマで見たかった気もするが、モニター越しであることもまたいまの空気の一断面であり、モニターというのがそもそも空気の一断面であるのかもしれない。
依頼された帯文の執筆のためゲラを3周目にメモしながら読む。
ちょうどひと月前、デヴィッド・ボウイの誕生日(1月8日、その二日後(1月10日)には5周忌をひかえていた)からボウイのスタジオアルバムを1枚目から順にすべて聴きなおす、ここに合わせて最近出た「ロッキング・オン」と亡くなったころ出た2016年の「Pen」と「ユリイカ」のボウイ特集等をかたわらに置いて、というのが2周目のベルリンまで来て、今日は山本寛斎さんの誕生日で、亡くなって初めての誕生日で、「ユリイカ」で寛斎さんがボウイについて語っている声を聴く。おなじくボウイを手がけられたスタイリストの高橋靖子さんとの対談。
寛斎さんと高橋さんのボウイをめぐる対談の中で、鋤田さんによるボウイの写真をめぐっての、高橋さんのこんな発言がある(「ユリイカ」2016年4月号)。
「鋤田さんのお写真で仮縫いしている風景が残っていたりしますけど、本当は三人で写っているのにさ、大抵の場合、端のほうにいたわたしが切られているのよ(笑)。わたし用の写真にしか写っていない(笑)。」
その見開きに載っている写真には、ちゃんと三人で写っている。
これを書いているいま、ふと、先日スパイラルで鋤田さんによるボウイの写真展を見たことを思い出して、いつだったかネットで調べてみたら、2014年12月4日~12月9日とあった、つい先日のこととおもったが、まだ生きていたころであった。
そのウェブページに添えられた「ヒーローズ」のジャケットの写真の手のかたちを真似してみる。
すると、いつか国立近代美術館で高村光太郎の手の彫刻のかたちを真似してみたときのことをおもいだした。
その手に、手のかたちにいざなわれるように、わたしはこんどは庭園美術館にいて、有元利夫の絵画を見ている。
その手を凝視している。
「有元利夫の絵の手がすきなの。」と言った。
言ったのではなかった、そうファックスに書いて送って寄こしたのだった。
「手って、絵のなかで、もっとも描くのがむずかしいの。」
「有元の手、すごく好き。」
彼女は耳が聞こえないので手話をつかっている。絵を描いている。
ふだん手話をつかう、そして絵を描くひとが、手を描くのはむずかしいといい、有元の絵の手が好きだという。
有元の絵の人たちの、身体にくらべてずいぶんと小さい手が、ぼやけている。
それは手が能面をつけている、とでもいうようにみえる。
それを書きつけたファックスの文字もまた、ぼやけてしまった。
葛原妙子の全歌集が欲しいのだが手に入らない。近くの図書館にあったのでさっき借りてきた。
おりしも、何か趣味が欲しいとおもっていたところだったので、全歌集掲載の妙子歌を全て写経することを目下の趣味とすることにする。
予約しておいた「新潮」3月号を丸善に受け取りにいく。「創る人52人の「2020コロナ禍」日記リレー」。永久保存大特集とある。ほかのひとたちがどんな日記を書いているのか参考にしようとおもう。
「永久」という言葉にいざなわれて、人類が滅びたあとに、どこか暗所にて、二度と頁をめくられることのない「新潮」2021年3月号の姿を想像する。
ひとの日記を読んでいると、書かれていることよりも書かれていないことによりひかれてしまう。
また、日記を書いていると、わたしが日記を、ではなくて、日記がわたしを書いているようなきもちになってくる。
帰りに日本橋髙島屋の画廊で重野克明さんの銅版画の展示を見る。椅子に座っている女の人の手から鳥が飛びたっていく。つかまえていた鳥を放っているように見える。
その絵は昔、重野さんが高校生だかのころはじめて書いた画をもとにしているという。
他の絵でも、いくつかおなじモチーフが時を経てリフレインされたりしている。
見入っていると重野さんと思しき方に声をかけられるが、ひとに話しかけられることにすっかりなまってしまって、とっさにうまく反応ができず、申し訳ないきもちになる。
そういえば、前回この空気の日記を書いてから今回までの間にスパイラルの向田邦子展を二回訪れたのだが、今日の話ではないので記さない。
しかしそんなことをいったらさきほど記した有元の手の話もボウイの鋤田さんの話も今日の話ではないので削除しなければいけないのかもしれない。
禍のせいかあたまのなかで起こることの比重が大きくなっている。
現在のなかに占める過去が。
「今日」というのがいったいどこからどこまでなのか、わからなくなっている。

東京・冬木
カニエ・ナハ