6月10日(水)

女は
白いクルマで

仕事に行った

モコを抱いて
見送り

家の
前の道路の

側溝の
蓋の

隙間の

苔と
ヤブタビラコに

水を
やる

それから
庭の

金木犀と南天にも

ホースで
水をやる

ほとんど

毎日
そうしてる

アメリカでは
黒人の若者が

「I can’t breath」

そう
言って

死んでいったという

香港では

「いまはとっても怖い、
 すごく怖いです。
 でも、だからこそ、声をあげることは、今やらなければいけない。
 私たちは、絶対に沈黙しません。
 抗議の声を上げ続けます。」*

そう
周庭は

言っている

答えのでない問いの前で若者たちも
大人も

いま
生きようと

してる

夕方
午後からの雨は止んだ

ポストに布マスクが届いていた
宛名はなかった

※Agnes Chow 周庭 の twitterより引用

静岡・用宗
さとう三千魚



6月9日(火)

赤い都庁は問題がウイルスから人間側に移ったことの警報で
これから大きくなる綻びを予兆しているのだろう
だれにも解除できないこの状態は災禍というより
百年に一度巡ってくる不思議な季節のようだ

蚊は刺し
装いは軽くなっても
日に焼けた子はいない
マスクは街にあふれている
みんな機械としか話してないのに

東京・世田谷
松田朋春



6月8日(月)

マリー・ローランサンの2014年三鷹市民ギャラリーでの展覧会の図録が、家の図書室のどこかに埋もれてしまっていて、もう何年も行方不明である。表紙が鏡のような銀で、とても目立つのだけど。この鏡の銀は、ローランサンの絵画に特徴的なフレームにちなんでいるとおもわれる、ことを思い出したのは昨秋、横浜美術館でみたオランジュリー美術館コレクション展で、ひさしぶりにローランサンの絵画を何点か見たときで、鏡であるフレームは、しかし経年により一部腐食していて、絵画自体はそれほど褪色等しているように見えない、相変わらず、良い意味で夢のように淡くくすんだ優美さと夢のように淡くくすんだ哀しみとを湛えた鏡のようだ、しかし、その夢のフレームのほうの鏡は現実の時間に着実に浸食されている鏡で、その前にローランサンの絵画を見て記憶に残っているのは、2016年東京都美術館のポンピドゥー・センター傑作選展で、ここに1点出ていた。1906年から1977年まで、おのおのの年に描かれたポンピドゥー・センター所蔵の絵画1年につき一点ずつが展示される、というコンセプトも、それをうまく会場構成に落としこんだ田根剛さん等による特異な会場デザインも印象的だったが、ローランサンは1940年の絵画として出ていた。五年後、1945年には絵画がなく、ブランクとして真っ黒な壁が、図録では真っ黒なページがある。そのことを、最近のニュースでおもいだしていた。ローランサンの鏡のフレームは、図録では省かれている(その代替であるかのように、三鷹のローランサン展の図録では表紙が鏡になっているわけだが)。ところで、その三鷹のローランサン展に行った正確な日付を私はおもいだすことができるのだが、それは2014年10月31日で、その日はローランサンの誕生日であって、しかもあなた(とわたしは記す。なぜなら6年前のわたしなどもはや〈あなた〉であるからだ)が行ける距離にてローランサン展が開かれていたのだから、あなたはそこを訪れたのだった(ちなみにローランサンの忌日は6月8日)。しかし、あなたには不思議だったことに、その展覧会場は、その日がローランサンの131回目の誕生日であるにもかかわらず、観客はほぼ、あなた一人しかいなくて、こんなに空いている美術館は何かがおかしい、と、あなたは訝しんでいる、つまり、誤って何かの拍子にフレームから鏡の中に迷い込んでしまったのではないか、などと。ローランサンの夢の鏡のフレームに、いくつにも分光された、あなたばかりが映っていて。そう、意外にも、再開となったら殺到するのではとおもっていたのだが、東京ステーションギャラリーも東京都現代美術館もガラガラで(このふたつが、あなたの家から最寄のふたつの大き目の美術館だ、自転車で行ける)、密というのであれば、スーパーとかコンビニとか公園のほうがよっぽど密なのであった。この2、3か月のあいだ、絵画というものの、実物を見ずに(あなたが所有している、家の壁に架けてある何点かは別として)、複製された図版ばかり延べ何千点だかと見てきて、当然あなたの絵画を見る視点なり視線なりはリブートされているとおもうのだけど、やはりマチエールそれからサイズ、そしてフレームということに、まずあらためて、あなたの意識はゆく。〈目の触覚〉〈視線の触覚〉とでもいうべきものが存在し、実物の絵画を走査する視線が、それを擦過し、感知する。視線の触覚にざらざらとした触感が残る。それがなんだというわけではないが。翌日、目覚めると、あなたの右目は充血していた。それは今日も未だ残っている。同様に映画館にも早速にあなたは駆けつけてしまったわけだが、ジム・ジャームッシュ「デッド・ドント・ダイ」初日、あなたの見た回の観客はあなたを含めて5名ほどで、ソーシャル・ディスタンスは保たれているであろうわけだが、左4、5席空けたとなりの席のおじさんがマスクのうちがわでとはいえ咳ばらいをすると劇場にそこはかとない緊張がはしり、あ、アダム、あぶない!すぐそこにゾンビが!やがて右後ろのおじさんのいびきが聴こえだすと、あれは眠っているんじゃない…、じきにゾンビとして目覚めようとしている!…などといった、スクリーンの中のホラーとは別種の現実のホラーが劇場内に二重写しになっており、それはそれで新種の3-D映画として面白がれなくもないわけだが、それにしても映画館とはかくもノイズの多い場所であったのだった、そういえば!とあなたは気づく。そういえば昨秋も、あなたは映画館のノイズのために、同じ映画を3回も見るハメに陥ってしまったのだった。一度目はあなたの体調がすぐれず途中寝てしまい、二度目はあなたのうしろの席のおばさんがポップコーンを食べる音が二時間強の間止むことなくあなたは(神経質なあなたは)全く映画に集中できず、の旨を終わったあと劇場係員の人にあなたは(神経質なあなたは)伝えるとおなじ映画をもう一度見られるチケットは心優しげな係員のひとにあなたは貰って、そして三度目にしてあなたはようやくその映画をちゃんと見ることができたのだった…、それでそんなこともすっかりあなたは忘れていて、こんど2ヵ月振りだかに映画館で映画をあなたは見て、映画館ってやっぱりいいよね!ってあなたはおもえるものと期待していそいそと映画館に駆けこんだのだけど、蓋をあけてみればそんなことは全くなく、映画館ってノイズが多い!ってあなたはおもって、人それぞれだもんね、しかたないよね!って、あなたは。映画館で、むかし、いまはもうない浅草の汚ったない映画館で、リバイバル上映の「寅次郎 あじさいの恋」を見たことがあったのね、昼間からお酒片手に…のおじさんたちが、なんと、オープニングのテーマ曲がはじまると、大合唱するのね、それから、寅さんが失敗すると「だめだよ、寅さん!」とかスクリーンの寅さんに向かってつっこみを入れて、等々みんなやりたいほうだいだったけど、めちゃくちゃ楽しかったんだ。むかしは映画をみるのって、みんなああいうかんじだったのかな。ああいうのだったらうるさくっても全然いいんだけどね。それからあとね、いろいろおもいだしたからついでに云わせてね、タランティーノの「デス・プルーフ」って映画(2007年くらい?)、公開初日(9月のあたまくらい?)に新宿武蔵野館で見たんだけど、あれ、エンドマークが出た瞬間拍手喝采が起こったんだよね、まあ、映画の中の悪役がさ、数年前のハーヴェイ・ワインスタインみたいになったってわけ(そういえばあの方、服役中なのにコロナにかかっちゃったらしいけど、無事なんだろうか、そもそも、あのひとのこの数年置かれてる状況ってもう全然無事じゃないよね!)あとはね、恵比寿ガーデンシネマが2010年だかに一度休館になったでしょ、その閉館前一番最後の回にリバイバル上映の「スモーク」見たんだけど(これも毎年クリスマスがくるたびに、もう十回は見た映画なんだ。クリスマス映画といえば「スモーク」だよね!)、そのときも終わった瞬間拍手喝采がおこったんだよね、あれは映画そのものっていうより、劇場へ向けての拍手だったとおもう。あの回も満員だったな、満員の映画館に万雷の拍手…、それらは映画館ならではの良い思い出として、あなたに残っていて、それらを思い出すとやはり映画館っていいな、映画館を守らなくては!とかあなたはおもうのだけど、しかし、おおかたは先日のジャームッシュのゾンビ映画の際のあなたのごとく、となりのおじさんのいびきがうるさいだの、うしろのおばさんのポップコーンがうるさいだの、そんなんばかりなのである。また、ひさしぶりに割引なしの正規料金1900円を支払ってあなたは見たわけだけど(レイトショー上映がないので!)、「自分への投資」込み、ということにでもしなければ、とても採算がとれないな(Netflixが月々1200円だもんね)、などとあなたはおもったのだった。それでジャームッシュの新しい映画の話のつづきで、クロエ・セヴィニーをあなたは久しぶりに見て、そうだあの、むかし、ほら、ヴィンセント・ギャロの映画でクロエ・セヴィニーがでてくる、あの映画めちゃくちゃ好きだったんだけど、あのギャロの乗ってる車のフロントグラスの窓の汚れ!あの汚れが!あの汚れなんだよ!それで、あの映画のエンディング近くで、タイトルにある〈ブラウン・バニー〉が出てくる、いや出てこない?ん…?出てくるヴァージョンのエンディングもあったけれど、公開されたものでは出てこないものになったんだったっけ?そういう話を当時、映画雑誌(いまはなき「日本版プレミア」とかだったかな?)で読んだのだったとおもう、〈ブラウン・バニー〉が出てきたか、出てこなかったか、あいまいにあなたはなっていて、でもその映像を頭の中で再生できるから、出てきたのかもしれない、それとも雑誌の記事で読んであたまのなかでつくりあげられた映像がいまあたまの中で再生されているのかもしれない、あなたの。ジャームッシュの新作のゾンビ映画では、墓場から、雑草のようにゾンビがニョキニョキ生えてきちゃってさ(向こうの席で、またおじさんの咳!)、「足並みそろうと全滅しちゃうので。」っていう、こないだ見た、石川佳奈さんのオンライン個展のタイトルと、その内容のことを思いだして、ずっと考えていたのだった、あなたは。

石川佳奈さんの先日のオンライン個展「足並みそろうと全滅しちゃうので。」は(タイトルはある雑草学者の言葉から、とのこと)、当初5月に北千住BUoYのギャラリーで展示する予定だったのを急遽オンライン展示に再編成したとのこと。3つの映像作品で構成されている。1つ目の映像では、東京とか銀座とか北千住とか、東京の各所で、足もとで誰にも顧みられることなくひっそりと道端のアスファルトの隙間とかから生えている雑草が、人の手(石川さんの手だろうか)でむしられる。その様子を雑草の目の高さ(つまり人間にとっては超ローアングル)でとらえる、そのあまりにもささやかな行為には(当然)無関心に、周囲を行き交うひとたちの〈足並み〉が映し出される。それがロケーションを変え執拗にリフレインされる。絵画のマチエールを感知する目の触覚の存在をあらためて感じたことをさっき書いたが、石川さんの作品を見ていて感受したのは、ごくかすかな痛覚のうずき、それから幻のようにかすかな嗅覚の震え。

先日あなたは、夜中にあなたの街をでたらめに散歩をしているとき、角を折れるとふいに、廃墟のような古い木造の家が解体されている途中の現場に出くわす。突然鼻を刺すするどい匂いに刹那、恐怖のようなものを感じる。植物が伐られるときの匂い、あれは痛みが匂いとなって発されているのだとどこかで読んだ記憶があるけど、あれに似ている。また一つあなたの街から雑草である建築がむしられてしまっている。それで石川さんの作品で雑草がむしられるとき(それはむしられているのであって、伐られているのではないのだが)痛みの匂いを発しているように、嗅覚がそれをモニターごしに嗅ぎ取ろうとしていたのだとわかった。

むしる手とむしられる雑草とが交錯する一瞬に、植物は人間であり、人間は植物である、と錯覚する。それを錯覚するあなたもまた、束の間、その二者に同一化している、あなたもまたむしる人間とむしられる雑草とが一体になったものとなりそれを感知する視線の触覚があなたであり、幻覚する嗅覚があなたである。また、石川さんの、むしるまでにいくぶん、ときにさんざん、逡巡しているようにみえる、その長いような短いような奇妙なアイドリングの時間に、雑草とコミュニケーションを(あるいはディスコミュニケーションを)交わしている異形の空間が立ち上がっている、ように見える。これは、昨年一月にスパイラルのエントランスで展示されていた、石川さんの前の個展「触りながら触られる」に通じているように、あなたは感じた。ここでは手と雑草の関係が、「触りながら触られる」の人a(女性)と人b(男性)の関係と相似であるように、ふりかえってあなたは感じている。

それにしても、むしられるとき雑草がもっとも雑草として立ち上がりわたしに迫りくる!と、眠りしなにこの雑草と手の映像のことを回想していたときふと巨大な雑草にあるいは巨大な手に覆われるイメージにあなたは襲撃される。

2つ目の映像では部屋に持ちかえられた雑草がミキサーで分解されて濾されて紙になる。それは外の川べりの広場へともちだされ、草のうえに放置され、じきに風にさらわれて空へ放たれて川へと落下する。そのとき、どこまでが植物でどこからが紙なのか、あるいはどこからが植物である紙で、どこからが風なのか空なのか、どこからが紙でも風でも空でもある植物でどこからが紙でも風でも空でも植物でもある川なのか、わからなくなるような心持が、あなたはした。そしてそれらとあなた(たち)との境界はどこなのか。紙に問われる(映像)。いずれにせよもはやほとんど川である雑草は東京を脱出する。

3つ目の映像で、公園に生えているなんでもない雑草をむしっていいものかどうか確認をとろうと役所に電話を石川さんがしている、電話にでた女の人が確認するために電話を保留にする、その保留音のチープなレット・イット・ビーのBGMが流れている間、石川さんがむしった雑草から紙をつくる子どもたちとのワークショップのダイジェスト的な映像が流れる。あらゆる子どもたちを見るときわたしたちは自分たちのなかの子どもたちをそこに二重写しに見ている、という視点がある(ならば、あらゆるものはジョンかポールかジョージかリンゴかに分類することができる、というレトリックも成り立つ。)同様に、あらゆる雑草を見るときわたしたちは自分たちのなかの雑草をそこに二重写しに見ていて、あらゆる雑草がむしられるときわたしたちのどこかがむしられている、そしてあるいは、雑草は巧みに企んで石川さんと子どもたちの手をかりて変身し脱出しようとしているのかもしれない、とあなたはレット・イット・ビーを聴きながら、石川さんと共に役所の女の人を待っている間、ぼんやりと考えている。

あなたの家の中に雑草のように日々、本が増えていって今日、今、あなたが見たいマリー・ローランサンの画集が雑草に埋もれて見つからない。ローランサンが亡くなったときアポリネールからの手紙を胸に抱いて埋葬されたのだった。アポリネールはそのずいぶん前にスペイン風邪で亡くなったのだった。アポリネールがスペイン風邪で亡くなったとき枕元にはローランサンが描いた彼の肖像画が架かっていたのだった。美術史がかつてあまりにも男だらけだったので、ローランサンの画集は大変貴重なのだが、男どもの雑草に埋もれてマリーの画集がみつからない。そういえば、レット・イット・ビーの歌詞にはマリーがでてくる。ポールの若くして亡くなったお母さんの名前であり聖母でもあるのだったっけ。ジョンもまた、お母さんを早くに亡くしたのだったっけ。そして、じぶんが亡くなる日アニー・リーボヴィッツのカメラの前で胎児のようにしてヨーコさんに抱きしめられてそれから数時間後に亡くなったのだったっけ。ジョンが亡くなった日にパール・ハーバーが奇襲されてたくさんの男たちがそれぞれのマリーをおもいながらあるいは叫びながら亡くなっていったのだったっけ。息ができない…、ママ…って。あなたは。奇襲のように雑草がむしられて、感覚がいつまでもざわざわとささくれだっている静電気で微動している、いまは電源の落ちているまっくろいモニター

東京・深川
カニエ・ナハ



6月7日(日)

できるだけしずかなところで
つぶやいてみてください、
タマシイ ということばを

舌が口蓋をたたく「タ」、
むすんだ唇をあける「マ」、
タマというとき
口のなかの小鼓の音が
下りてくようじゃありませんか、喉という深井戸を
できるんですよ、
間(マ)が、からだのおくに

タマ、タマ、タマ、
くりかえすほど、腹という沼にたまる響きたち
それを魔(マ)と呼ぶひとだって、あったでしょう

そうして
小声でいってみてください
そのタマを、
のせてください
歯のすきまから漏れる「シイ」に

タマ、タマシイ、
タマ、タマシイ、
白い息に包まれて
こんどは汲み上げられていくでしょう、沼の魔が
のぼっていくでしょう、
そうして
口から
尾をひくよ、けむりのように

タマシイは
うごくもの、
うごいていくもの

“息ができない”

そのいまわで
うごくもの、
うごいて、ひろがるもの

※米国ミネアポリスの事件、ジョージ・フロイドの最期の言葉「I can’t breathe」より、“息ができない”。

神奈川・横浜
新井高子



6月6日(土)

雨の月がはじまり
夏の薄いカーテン越しに
登校する子どもたちの声が聞こえるようになった朝
しばらく閉まっていた花屋を覗いた

ひさしぶりに目にする
さまざまな色から
赤でもピンクでも紫でもなく
赤でもピンクでも紫でもある花をえらんだ

陰 陽
白 黒
必要 不要
緊急 不急

一輪の花でさえ
そんなふうにはほんとうは分けられない世界で
息をしている

まだ春がくるまえのこと
急ぎの用事でもないのに
話すこともないのに
ひとと会って
いっしょに歩いた

雨あがりの
とくべつにきれいな緑のなかを

赤でもピンクでも紫でもなく
赤でもピンクでも紫でもある
移ろう花びらのような
やさしい沈黙を交わして

今夜は満月
けれど曇りのち雨
満ちた月は空に現れない

それは
ない のではなく
まだ見えないだけのひかり

さまざまな輝きと
沈黙を
吸いこんで ひらく
六月の花を
そばに置いて

急ぎの用事でもないのに
話すこともないのに
もっと会っていたかったひとに
メールをした

「こちらはまだ曇っています。
そちらの窓からは
見えないはずの月が
見えますか」

東京・杉並
峯澤典子



6月5日(金)

二ヵ月ぶりに電車に乗り、三ヵ月ぶりに美容院へ行き、いつぶりか分からないくらいに、素敵なお店におずおずと入り、飲茶を食べた

街を歩く人の数はもうふつう
少しだけ怖いのは感染のことではない
人々は、もうしっかりと鎧のように属性を着て歩いている
学生服、ネクタイ、バックパック、ゆるいワンピース
私だって同じ
朝、なんとなく「社会」を意識した頭で服を選んだら、何を着たらいいのかちょっとわからなくなった
ついこの間まで、散歩で出会う人々は、みな「おうち服」を着ていた
少し離れて歩き、ぴったりくっついているのはいろんな年代のカップルばかり
あらためて生物としての番(つがい)を、遠くから川縁の道で確認した

でも今日、街では人々がひとりずつを背負ってひとりで歩き、属性をちゃんと着込んで、とりつくしまのない顔で歩いていく
そこに感じるほんの少しの威圧感と臆病さを、私はこれまで我慢していたのだろうか

電車に乗る人々、街を歩く人々はもう以前のよう
でもマスクだけが
呪いにかかった絵本のように
そこだけがまちがった絵のように
服装も属性も別々のみんなにつけられている
まちがった絵本の中で、ほんらいなら笑いを誘うレイアウトであったかのように

飲茶を食べたお店の内装は居心地が良く、気持ちが引き立つくらいに適度にきらびやかで、けれども、ここにも慣れない感じがつきまとう
お店だと頭ではわかっているのに、誰かの家の居間にいるような奇妙な気分
家以外のいったいどこでありうるだろうか、こんなに燦々と日が降り注ぎ、外の木々が「安心していいよ」とそよぎ、私が寛いでものを食べるのは

お店の入り口でも、注文を取る人も、とりわけ丁寧に、いやむしろうれしそうな顔で迎えてくれて、きっと人が怖いだろうに申し訳ない気持ちで不思議になる
けれど立場を変えて考えてみると、マスクをして次々とやってくる人々は、生き残った人々であり、お店を忘れずにまた来てくれた人たちに見えるのだろうと思った
私が迎える側なら、きっと次々にとことこやってくる人々は、一人一人であることを超えて、胸をきゅっと摘まれるような愛おしい「景色」に見えるだろう
それは鏡になって、生き残った自分と場所をしみじみと感じさせるのかもしれない

久しぶりに食べる「外の味」の複雑さに、細胞がこまかくなる
これは生姜とにんにくが入っている、そこまでは分かる、でもその後ろからやってくるこれは何?
辛かったのに、喉を通ってしばらくすると口の中が突然甘くなるのは何?
文化という言葉が、饅頭を噛む頭の後ろの方に、ゆらゆら浮かぶ
でもさらにその後から形容しがたい気持ちがわいてくる
それは後ろめたさのようで、もう少し白けたような、おやそんなものがいたのか、と思うような感情
家のごはんは自分が作っても夫が作っても、すみずみまで何でできているか食べながらわかる
それに比べてこの飲茶は文化を感じさせるのだけれど、これ、ときどきでいいなと思う
そして私はそんなふうに思う人だったかなとも訝しく
細胞はここまでこまかくならなくていいのかもしれない
もっと、餅米とお水でできているお餅のように呑気でいいのかもしれない

午後早い地下鉄はとても空いていて、いろんな電車の内装が新しく変わっていた
オリンピックにやってくる世界各国の人々を乗せようとはりきっていたのなら
事情を知らない車両も
新しいシートも床材も
がらんとしてまるで何か悪いことをしたので
当たるはずのよいことを、働いてよろこばせるはずだったことを罰として取り上げられたように
ぼおっと空虚なままで
不憫だ
説明してあげたい
あなたがたが悪いのではない

東京・表参道
柏木麻里



6月4日(木)

中央線にふつふつとあふれてくる
しずかなひとなみ
あかるいあさの
ひかりのなかで
皆、
目だけでものを言う

あさはしずかな電車のなかで
マスクを忘れたおじさんが
目だけで刺されまくってる

あけはなたれた窓からは

水色の風が
人と人との近くて遠いすきまを
ただ、ふきぬけてゆく

あらゆることが
あらゆるものが
遠い

未来だ

東京・小平
田野倉康一



6月3日(水)

ゆめの
てのひらがわたしに触れた
汗に湿った指がやわらかく動いて
頬をなぞり唇へ
わたしのマスクはどこかに消えてしまったから(夢だから
とてもこわい
どうしてこわいとおもわなくちゃいけないんだろう
おもいだせなくて(夢だから
体の遠くで鳴り響く叫びに似た警告を
踏みにじって触れあわせる唇から
うつくしい蜘蛛の糸のように唾液がつながって
死へと近づいていく
すりる
きもちよかった
うそだけどね

目が覚めて手を洗う
てのひらを泡だらけにして擦りあわせて30秒
ハッピーバースデーを2回分だっけ
でも「Mad World」のハッピーバースデーしか出てこない
Happy birthday,Happy birthday
それからなんだっけ(Adam Lambertの歌声で思い出す
The dreams in which I’m dying are the best I’ve ever had.
もう長いこと他人に触れてなどいないてのひらは
おかしくも悲しくもなく
さっぱりと洗いあげられる
きのう東京アラートでどこかが赤くなったらしいけど
なんのことかひとつもわからない
さあ
今日もきれいにくるった世界へ
生まれ出ていこう
うそだけどね

コンビニのレジのひとは
ゆめのなかみたいに透明なビニールに隔てられ
わたしたちはすべて汚れているという前提で
紙幣や硬貨と
パッケージされた食べ物や飲み物を
受け渡して(ありがとう
生きていく(おやすみなさい
今夜
どこにもいないこいびとが
訪れたときのためにあの透明なビニールがほしい
両側からてのひらをあわせて
それぞれの唇のかたちに透明を歪ませて
口づけをしよう
すてき
かもしれない
うそだけどね
わたしたちが透明に隔てられていなかったことなんて
きっとこれまでに一度もなかった

テレビの向こうで話されていることも
告げられる数字もすべて
うそにきこえる
うそだったね
うそなんだね
隔てられて触れあわないままここに
いる

東京・神宮前
川口晴美



6月2日(火)

わたしの命の
ぎりぎりまで

つらいことや
悲しいことや

わたしを苦しめる
ことが

あると
いいな。

そしたら
植木屋さんが
伸びた枝に鋏をふるうように

そしたら
コックさんが
自慢の料理の腕をみせるように

そしたら
お医者さんが
新たなウイルスと格闘するように

そしたら
お巡りさんが・・・
皆が皆そんな人ばかりでないように

そしたら
カリフォルニアオレンジが
最後の一滴までオレンジであるように

祈りを甘くしながら
与えられた仕事の腕を発揮できるから。

第二波、
第三波にそなえて

***

きれいですね、
きれいなもんか。

お花、
あ、花ね。

スナックに持って行くの
オープンしたから持って行ってやんの。

少しずつ
ひるのまちの扉がひらき
少しずつ
よるのまちに灯がもどる。

写真撮ってもいい?
うん、いいともさ。

埼玉・飯能
宮尾節子



6月1日(月)

堀井一摩『国民国家と不気味なもの』(二〇二〇年、新曜社)によると、山県有朋は明治天皇への意見書「社会破壊主義論」(一九〇八年)のなかで、「社会主義」を《国家社会ノ存立ノ根本》に対する《病毒》と形容している。《今其ノ病根ニ向テ救治ノ策ヲ講スルノ急務ナルト同時ニ其ノ形体ヲ具スル者ニ対シテハ国家社会ノ自衛ノ為ニ最モ厳密ナルノ取締ヲ為シ此ノ病毒ノ瀰慢ヲ防キ之ヲ禁圧根絶セサルヘカラサルナリ》。
山県は《病》という修辞を用いることで、「社会主義」が国体という巨大な政治的身体に外から入り込み、その全体性を蝕む排除すべき対象であることを仄めかしているが、同書はこの語が選ばれた背景として、貿易により国外からもたらされたコレラの蔓延を指摘している。そして、「伝染病」と「危険思想」の喩的な重ね合わせは、単なる修辞の問題にとどまらない。同書の指摘をさらに続ければ、医療行政は厚生省設置の一九三八年まで内務省の所轄であり、当時のコレラ対策は警察を主体として行われていたという。警察はコレラ患者に対して強制的な隔離措置や監視を行い、文字通り彼らを「犯罪者のように」扱っていたらしい。つまり、防疫対策と「危険思想」対策は、構造的にも認識的にもきわめて類似していたというわけだ。
「社会破壊主義論」の提出から翌々年の一九一〇年、大逆事件が起きる。明治天皇暗殺計画の疑いによる「社会主義」者らの大検挙は、宮下太吉が爆発物取締罰則違反の疑いで連行された五月二十五日に始まる。三十一日には松室致検事総長が事件を刑法第七十三条(大逆罪)に該当すると認定し、六月一日には幸徳秋水と管野須賀子が逮捕される。最終的に逮捕・起訴された人数は二十六名にのぼり、うち二十四名が死刑判決を受けた(実際の執行は十二名)。なお、当時は社会主義・無政府主義が厳密なかたちで区別されておらず、「社会主義」という語は両者を含意する。
ところで、スーザン・ソンタグは『隠喩としての病』(一九八二年、みすず書房)のなかで、特定の思想や人種に対して「共通の悪しき敵」のイメージを付与するために《病》の喩を用いるのは、とりわけ《全体主義》的な国家において見られる傾向であると述べている。代表的な例として、彼女はアドルフ・ヒトラーがユダヤ人に対して用いた《結核》の比喩などを挙げているが、果たして《病》という喩にふさわしかったのはどちらの方なのか。そう考えると、山県によって《病毒》と呼ばれた「社会主義」者よりも深刻な《病》に陥ったのは、その後の大日本帝国だったといえるだろう。病名は「超国家主義」と呼ばれる。そこでは国民全員が天皇を頂点とした国家のもとに結びつけられ、個々人の精神が「億兆一心」を体現すべく一点に集約されていく、という形式が取られる。その感染規模は「社会主義」をはるかに越えており、たとえば大逆事件の同時期に誕生した口語自由詩についても例外ではなかった。第二次世界大戦期において発表された口語自由詩は、戦意昂揚詩と呼ばれる病的な熱を帯びた形式を伴い、敗戦を契機として無症状化したものの、その後も一定の間隔を置いてたびたび類似の症状や、それに対するアレルギーのような反応が確認されている。
ここで《病》という語は、制作者が抱えるゆらぎや複数性を単一的なものへと収束させる判断や表明の形式が持つ力であり、それらによって可視化された精神を意味する。とはいえ、病の比喩に基づく詩史の解釈は、状況そのものを詩の制作主体として中心化するタイプの認識と、そのつどの制作に内在する倫理的・能動的な思考の軽視を招きかねない。加えていえば、そこには解釈者自らの思考が「病んでいない」ことへの無根拠な確信が付随している。
前日に遅くまで原稿を書いていたため、始業の八分前に起床し、間に合う。五月の実績資料の作成。同僚との共有不足で、まったくおなじ資料を二人でつくっていたことが判明。次回からは事前に担当部分を決めておくことにしたものの、どちらがそれについての相談を切り出すかも、決めておく必要があったような気がする。
資料を上司へ提出し、入浴。大家に家賃を払いにいくと、一日遅れただけなのに若干の小言をいわれる。隣の部屋の人が先々月から長野の実家に帰っていて、家賃を払うためだけに東京へ来ているという。隣人の気配がなかったのはなんとなく感じていて、その頃から謎の虫を部屋のなかで見かけるようになった。正体を突き止めようとウェブ検索を駆使したが、該当しそうな虫の名前とその名前で出てくる画像が一致せず、ゴキブリ用の駆除スプレーをかけるといなくなるので、ゴキブリの仲間だと判断する。先月から急に虫の数が増えた。原因はいくつかあるとおもう。大家がアパートの周辺に食べ物を撒くようになり、そのせいでハトやスズメやネズミ、やたらとでかいカエルが家の近くをうろついている。食事を買いに外出すると、階段の近くでカエルを踏んでしまったり、脂のようなものでギトギトに毛羽だったハトに追いかけられたりした。
夜、キーボードを伝って謎の虫が手首に這い上がろうとしてきたので、近所のスーパーでバルサンを二つ購入し、焚く。時間まで近所を歩き回っているうちに、知らない公園を発見する。すべり台が赤いテープでぐるぐる巻きにされていて、乗り越えた跡のようなものがテープのたわみと劣化具合で確認できる。職場から電話があり、資料の内容について確認が入る。外出をとがめられたので理由を話すと、煙で追い出しても根本的な解決にならないといわれる。となりの駅まで歩いてしまう。横断歩道を渡り終えたとき、うしろから大きな声の人がやってきて目の前の人の視界を隠した。頃合いを見て家に戻り、具合がわるくなる。

東京都・高田馬場
鈴木一平