8月11日(火)

遅かった梅雨明けからの猛暑で
ベランダの温度計が40度を超えて二日目だ
日向の草木は水をやっても萎れていくほど暑い
安倍首相の支持率は気温より低くなった
テレビの画像では覇気がない
情報だけは入ってくる立場にいるから
この後に続く難局を見通せるし
もうやめたくなっただろうな
むりないなと思う
海外のコロナのニュースがこのところあまり聞こえてこない
ワイドショーはいつもの出演者が前日のネットニュースをなぞっている
どこにいっても大勢の人がいる
マスクをしているだけでみんな普通にリラックスしている
ただ何かしようとするとすぐに行き止まりがある
この暑さだってそうだ
まっすぐ飛べなくなったシオカラトンボがくるくる回っている
調子の狂ったものを見つけるとつい自分を仮託してしまう
世界なんてもともと狂っているのさ
アニメのセリフを思い出す
ここにもまた行き止まりがある

東京・世田谷
松田朋春



8月10日(月)

今日は祝日だ。
えっと、何の日だっけ

山の日。
祝日法第2条によれば「山に親しむ機会を得て、
山の恩恵に感謝する日」とある。

本来は明日(8月11日)が
今日に(特措法により)なったのだそう
開催予定の東京五輪への特別措置で、ということだ。

夏の川面を船に曳かれて――
お台場に置かれていた
五輪の輪がしずしずと退場していった

山あり谷あり五輪延期ありの、今日は山の日。

じんせい
なにがあるか、わからない。
そして
なにがなくなるかも、わからない。

夏の川面を船に曳かれて――
五色の輪がしずしずと退場していった
「また、戻れると良いけれど」の声に見送られて。

Go to(いけ)と
Stay home(おうち)のことばの扉が
ひらいたり、とじたりしている。

憂鬱になれば、きりがない。
こうなったら
腹をくくって、もしかしたら何百年に一度の
災難に当たったことを、宝くじのように愉しむのも
手ではないか。

どうせ、脳には
喜びと悲しみの区別はつかないらしいし。
胃袋の暗がりに、
フランス料理とカップ麺の区別がつかないように。

いよいよ、恐怖はひとを変容させはじめた
ようだ――
「帰ってくるな」と玄関に手紙を投げ込むひとと
「マスク不要」と駅前で音楽フェスをするひとと

珍種はやがて新種になるのだろうか。

ひとの普通がゆれている――
ゆれてるときは動かない、葉っぱにとまった
虫たちは。

***

こしあんの好きな義母に、評判の水羊羹を
商店街で買った。

和三盆ですか?
いや効かせ程度です、全部ワサでやると
くどくなるから。

夏祭りなくなりましたね、秋はどうかな。
中止になりましたよ、16万人も出るからね。

お店は、痛いですね。
仕方ないですよ、感染広がってるから。

「仕方ないですよ、***だから」

きっと、同じことばが75年前にも
ここを、通った。

***

夏草は元気いっぱいだ
なんでや
と、問いたいぐらいだ
なんとか
と、頼みたいぐらいだ
元気の秘訣を。

それでも
じっと目を凝らせば

夏の葉も病んでいた。

埼玉・飯能
宮尾節子



8月9日(日)

隣の人が拠点を地元へ移すことになり、大学の同期と後輩を呼んで退去の手伝い。隣の人の家族がトラックをアパートの向かいに停める。持ち帰る家具を荷台に積んで、捨てる家具は大家の駐車場へ運ぶ。右手が使いものにならなかったので重い荷物を二人に任せて、代わりに部屋の片付けをする。壁紙の一部がはがれかけていて、中に絵はがきが刺さっている。本棚には語学と演劇の本が多く、気になるものをいくつかゆずってもらう。お昼から始めて夕方頃には作業が済んだ。食事をごちそうになり、隣の人が思い出を話し始める。あの部屋に十三年ほど住んで、人生の三分の一近くをそこですごした計算になる。もともとは女性専用のアパートだったのに、鈴木さんが引っ越してきておどろいた。たまに大家さんに呼ばれて、鈴木さんや前に住んでた○×さんとご飯食べたけど、東京に来てそういうご近所付き合いするとはおもわなかった。一回だけ、鈴木さんとだれかがギター弾きながら大声で歌ってて、苦情入れたことがあったけど。それはたぶんオレですね……と同期がいった。
――(隣の人)あ~、鈴木さん朗読してくださいよ。
――(作者)え!
――詩を書いてるって、前に大家さんから聞いたんです。
――(後輩)一平さんとこの大家どうなってるんですか?
しばらくして、書きかけの詩を朗読させられる。

   だ れか きて  わ  か ら
夜道の人に冷夏の帰路が、忘れる体を分からせて
な   い  す が     た    で
空が指を組む、砂を固めてつくる種、わるい芽を
         ね    が  う
つんで、鳴きながら家の屋根を描く、向こうでは
ぴ  た り    と  や む
冷えた石の裏を流れる息が、鳥の影を引き受けて
      あ め    を ね じま げ
矢印のように草を打つ、その奥で眠る地面に手を
         る  あ お い
ついて、古い器に、溶いた雨の色を重ねていくと
           か  ら     だ
あたらしい器ができる、忘れる体が、それを叩く

隣の人が帰ったので解散し、三人で周辺を散歩。道に迷って、見つけたラーメン屋に入る。カウンター席が少なく、代わりにテーブル席が四つある。店主はずっとニコニコしていて人当たりがいい。和服を着た女とスーツ姿の男が入ってくる。女は四十すぎ、男は還暦を迎えたぐらいの年齢に見える。店主が注文を取りに来る。女が手慣れたような感じで、――フルーツとジュースをください、と答えると、店主がよく冷えたリンゴとメロンを切り分けて、瓶に入ったオレンジジュース(?)といっしょに持ってきた。
――(後輩)どういう店?
――(同期)思い出した。なんかさ~、オレもこのあいだ飯食ってたとき、へんなことあったんだよね……。
五月の半ば頃、同期が昔のバイト仲間と三人でお酒を飲みに行った。二軒目がビルの地下にある、こじんまりとした居酒屋だった。あるとき、飲んでいたうちの一人(Aさん)と、おなじタイミングで外のトイレに立った。入るときは気がつかなかったが、トイレの脇にガシャポンが並んでいて、全部の機体が白いガムテープで隠されていた。中に景品は入っているらしく、なにが入っているのか確認しようとしていると、Aさんがトイレから出てくる。二人で席に戻る途中で、席で待っているもう一人(Bさん)についての話をする。
――(Aさん)ずっと彼氏できないんだって。
――(同期)そうなの? いらないとおもってた。
――なんか、あんまり続かないらしい。前に、どうしたらいいんだろうね~っていわれて、自信がないんじゃないかって。だから、自分を好きになることから始めるって。
――筋トレでもするのかな。大事な話だね。
――でもさ~それ、だれでもいいから人殺したいっていって、自殺するのといっしょじゃん。
すこし考えて、全然ちがうのではないかとおもった。そのとき、向こうから人が歩いてくるのが見えて、それがBさんであることがわかったので話をやめた。あいさつをしてすれちがい、同期が振り向くと、Bさんはその場に立ち尽くしたまま首だけをこちらに向けて、じっと二人を見つめていた。話を聞かれたかもしれない。煙草を吸いにいくふりをして、店に戻らず地上に出た。すると、Bさんもうしろをついてきたのか外に出てきて、見向きもせずにそのまま闇のなかに消えていった。
ラーメン屋を出て、通りを迂回して住宅街に入る。暗闇のなかから緑色のフェンスが現れて、向こうに小学校のグラウンドが見えた。小学校の輪郭に沿って道路がのびている。角を曲がると、街灯の下でうごいている影があった。
――(後輩)蝉いますよ! グラウンドの土から出てきた蝉の幼虫が道路を横断しようとしていた。表面がぬれたように光っている。三人で蝉を囲うようにしゃがんで観察していると、後輩が急にマスクを外して、無表情で移動を続ける蝉の目の前に敷いた。マスクの上に乗ったので、近くの木まで運んで、蝉を幹のくぼみに引っかける。落ちないように下に手を置いて待っていると、上に向かって登りはじめた。後輩がマスクをつけ直す。
――(同期)えっ、蝉に使ったマスクまたつけるの?
――(後輩)さすがに大丈夫でしょ~七年自粛してたら!
コンビニで酒を買って、飲みながら三〇分ほど歩くと駅に着いた。行き先が同じらしい二人についていって遠回りする。次の電車に乗り換えたあたりで記憶を失い、気がつくと終電がなくなっていた。

東京・高尾
鈴木一平



8月8日(土)

夕方の窓辺で
古い白いカーテンが翻る
昨日からもう秋なんだってね
おかしいよね先週やっと梅雨が明けたばかりなのに
窓を閉めて
冷房をつけて
灯りはつけずに小さなテーブルへ
蒸した野菜と鶏肉をあいだに向かい合う
いっしょに暮らすひとは最近これにはまっていて
家にいるときは拵えてくれる
いただきます
静かに熟れ崩れていく果物のように暗くやさしい光が
ゆるしてくれるからくちがひらく
おいしいねこのタレなに
いいでしょうオリーブオイルと醤油麹
そうしていると
おそろしいことなど何も起こっていないみたいに
錯覚しそうになるけれどわたしたちは今も
ねんのためにできるだけ距離をとろうとしてとてもいい姿勢で
食べている
リモート会議があるからと
先に席を立ったひとのからっぽになった椅子を眺めながら
くたくたになった野菜をポン酢に浸す
ごめん
ここにはないテーブルのことを考えてしまうよ
女友達たちと適当な食べ物を大きなテーブルにたくさん並べて
だらだら食べて尽きることなくおしゃべりをしてお酒も呑んで
笑いながらチーズを切って甘いお菓子は半分ずつで眠くなって
うとうとするあいだも誰かが話す声が漣のように聞こえていた
夢のようだったあのときの
あんな場所に集れることがまたいつかあるだろうか
これが終わるときはくるのだろうか
日が沈んでゆく
無力感ばかりが汗ばんで
かき消されるように何もかもが軽くなっていくのに体は重い
昨夜は
オンラインのための仕事量と期日を確認しているうちに
こんなことわたしにはとてもできないもう続けられないとおもえて
涙がとまらなくなった
ごちそうさま
そうだねまだ手は動くから灯りをつける
食器を洗って
ベランダに干していた洗濯物をたたむと
まだ少しだけ光のにおいがする

東京・神宮前
川口晴美



8月7日(金)

旅行も帰省もできないということで、東京都内の高級ホテルに泊まっている。自宅よりも広いスイートルームには、6人くらい眠れそうなふたり用のベッド、6個椅子が並んだダイニングテーブル、たがいちがいに2人横になれるカウチ、壁にはふたつの巨大なテレビ。バスルームには大きな丸い鏡がふたつ、シャワーブース、バスタブ、スチームサウナがある。カウチに積まれたたくさんのクッションの配置を変える。ボタンを押すと開いたり閉じたりするカーテンのボタンを押して、開いたり閉じたりさせる。アフタヌーンティーにケーキとサンドイッチ、クロワッサン、チョコレートを食べる。チョコレートにはきれいな絵が描いてある。水ようかんとお団子、お抹茶のお点前。水のボトルの横には切子硝子のコップ。午後五時、スパークリングワイン、カナッペ、スモークサーモン、ハモ、じゅんさい、枝豆、西京漬のチーズ。午後七時、サラダ、ステーキ、ホタテ、カラメルソースのプリンとフルーツのデザート。ジェットバスのボタンを押すとシューっと音を立てて泡が出る。抹茶を点てた先生に倉敷デニム製のマスクをほめられる。フロントの女性は夏の着物をさらりと着こなしている。ことし庭の鐘は鳴らず、川沿いの桜を見た人も少ないが、ここではいたるところに吉祥文様がちりばめられている。わたしたちは幸運を呼ぶまじないで世界を防御する。必要なのは絆と繁栄のしるしだけ。

東京・目黒
河野聡子



8月6日(木)

マスクをする 呼吸をする
それから 君に話しかける
呼吸をする マスクはずす
それから 珈琲を一口飲む
マスクをする 呼吸をする
暑くてくらくらメマイがする
なぜかセカイがくるくる回る
くるくる回る地球の上で
君が回る セカイが回る
ぼくらはくらくら目を回している

マスクしてても ぼくはウレシイ
君と一緒なら息苦しくても隔離されても
モニターごしでも アクリルごしでも
君と一緒に笑って(イたい
君と一緒に歌って(イたい
マスクごしに君は笑う
マスクごしに君に話す
デカルトは「精神の属性は思惟
物質の属性は延長」という
2020年人類はマスクと共に進化しました

千年たっても 万年たっても
きっと地球はくるくる回る
そんな地球の夢を見た
君と手を繋いで踊る夢
君と笑いながら踊る夢
こんな楽しい時間は二度とこない夢
(それをぼくらは知っている夢
そんな寂しい夢がくるくる回る

とーくへ とてもとーくへ離れて語り合う
君の声はよくきこえているけど
笑っているのか泣いているのか
いまのぼくにはわからない

福岡市・薬院
渡辺玄英



8月5日(水)

  • N お疲れ様でした。
  • Y お疲れ様でした。
  • N なんとか無事終了しましたね。
  • Y 有り難うございました。
  • N 本番中、マスクをつけていない事注意されないで良かったですね。
  • Y そうですね、いつでも付けられるように横に置いておいたんですけど。
  • N 今日のパフォーマンスは、発話する口元の動きがキーになりますからね。
  • Y マスクができない分、口元だけのフェイスシールドも考えたんですが。
  • N 息で曇っちゃって見えなくなりますしね。
  • Y そうなんですよね。でもそれで今回、口元の動きが感情の重要な情報なのだと感じました。
  • N 口は喋る事や食べる事以外にも、感情の発露としての重要な役割がある?
  • Y はい。この間Fさんと話してる時に、食べるために一旦マスクを外したんですよ。そしたらFさんが急に安心した顔になって、理由を聞いたら、私がずっと怒ってるんだと思ってたみたいで。でもマスクを取ったら私がニコニコしてるから安心した、って言ってました。
  • N なるほど。目と口の表情は必ずしも一致しない、という事ですね。「目は口ほどにものを言う」というけど、実際は口の表情を備えて初めて目は語れるのかな。しかもマスクは目以外全て隠しますからね、鼻も顎も。目だけを孤立させると情報に乏しくて、時に乖離した印象を与えてしまうんですね。
  • Y そうだと思います。
  • N 先程終了した我々のパフォーマンスで、Yさんが今回ご企画された五つのプログラムが全て終わりましたが、どうでしょう?今回、我々はコロナ禍の最中で、どうしても常にコロナの状況を注視せざるを得なかった面もありつつ、コロナ禍というこれまでとはまったく違った環境だからこそ可能になる事もあったのかと思いますが。
  • Y そうですね。今回コロナ対策の為、全部無観客での配信公演となったのですが、逆に配信という形でなかったら、こんなに短期間で五パターンのパフォーマンスをしようとは思わなかったし、演劇以外のアーティストの方々と一緒にやろうとは思わなかったと思います。あと、今回の企画の基本コンセプトである、ツイッターでのハッシュタグ募集も、自粛期間中にうちに閉じこもりSNSを普段より多く眺めていた、その時に考えた事が影響したと思います。
  • N なるほど。実際コロナ禍のせいで、劇場が通常の演目の上演が不可能になってしまったからこそ、我々は屋上だったり外廊下だったり、この間なんかは客席をすべてばらしたりして、普段の使い方とは全く違う使い方で「場」を使用出来ました。そうやって様々な場所から配信が出来たのも、現在のこの「からっぽの劇場」の状態だからこそですし、既成の形に据えられていた「場」が、行為に合わせて自在に設えを変える事で新たな姿を我々に見せ、不可能を可能にしてくれた気がします。
  • Y そうですね。こういう状況でなければ、劇場側も劇場祭も、こういう形式をやろうとも思わなかったと思います。
  • N 今日やったパフォーマンスのテーマじゃないけど、我々はこれまでも常時何らかの不自由さ、規定された規制みたいな中で常に何が出来るのかを探している。でも現在の不自由さは、コロナ禍以前のそれとは全く異なる。だからこそ、私達は今まで考えなかった事を考え、やろうとしなかった事をやろうとする、その結果出来なかった事もあれば出来た事もある、という事ですね。
  • Y 今出来る中で最良の選択肢を探していきたいな、と思いますね。
  • N ですね。いずれにせよ、今日で無事に全部終わって本当に良かったです。有り難うございました
  • Y 有り難うございました。

※本日8月5日に吉祥寺シアターより配信を行った、「からっぽの劇場祭」でのパフォーマンス公演 『(in)visible voices-目にみえない、みえる声たち-』終演後の、楽屋でのYとの会話より

吉祥寺・吉祥寺シアター
永方佑樹



8月4日(火)

三十二時間に伸びる
一日でも
    おかしくなく感じさせる
百五十六日間の
三月の梅雨が開けて
    そういえばなかなか長期を考えられないなとふと考える間

笑いながら終わり無き仕事で識る無意識の旅愁が
歯ぎしりに身体翻訳し尽せられ
    奥歯が下の骨を溶かし
その奥歯を抜いてもらうお医者さんと死者の相対的な無さを喜んで
    少し歪んできた顔で
笑う

ついうとうとし欄外の領土を
    妙に広げ流れ始める仄かに滑稽な朝日の希望を抱かせるきっと鳴いている鳥の声が扇風機に飲まれてゆく

       これは条約だったらサインする国はないん
だろうが 家を出る度にここで亡くなった島村抱月の記念碑により
       彼は勝手に永久との条約に結ばれてしまった
『ドン・キホーテ』を訳した人物の死因を検索してみれば
    多分、たゆまぬ情熱

東京・横寺町
ジョーダン・A. Y.・スミス



8月3日(月)

福岡の父から珍しく電話がかかってくる。「とうとう罹ってしまった。コロナじゃ」。39度近い熱があるという。即日H病院の発熱外来へ担ぎ込まれる。主治医のK先生から電話。「コロナではありませんが、腫瘍による胆管の炎症です。緩和ケア病棟に空きがないので、一般病棟で抗生剤の治療を行います」。それが一週間ほど前のことだった。その時点では一般病棟での家族の面会は一日15分まで許可されていたが、一昨日から再び完全に禁止される。全国的な感染者数の増加に対する措置である。K先生からは頻繁なメール。肝臓の腫瘍の径は左葉が10センチを超え、右葉にも2センチ大のもの。腎臓は萎縮と結石。両側胸水。昨日また連絡があり、急遽緩和ケア病棟に移れることになったという。こちらは30分までなら会うことができる。「いつ来られますか?」。いざ、羽田へ。

顕微鏡のなかの
細胞に海が満ちてゆく

オーブントースターの窓の向こうの
残照がキツネ色から焦げ茶へと変わる瞬間を
またしても見逃す朝

どちらがどちらの背景で
前景は何なのか
無自覚無症状のまま市中感染を続ける縁起の仏法
明滅するボソン収縮のクラスター

アル・アマルから送信されてきた未来の故郷の稜線が
老いてなお清しい鼻梁の影をなぞっている

そのもっと手前、
内なる波に揺れる尿瓶と
消毒済みの床を練り歩く遺伝子行列

蝉時雨のエコーから滲み出る
未生の静寂

(注 アル・アマルは「希望」を意味するアラビア語で、2020年7月に打ち上げられたアラブ首長国連邦の火星探査機の名称。)

横浜・久保山
四元康祐



8月2日(日)

この陽射しを
もう疑わなくていい
つかの間かもしれないと
身がまえなくていい

山に来た六日まえ
特急の雨の窓には まだ
葡萄畑の緑がけむっているのに
空調の効きは 覚悟が必要
何枚はおっても からだがこわばって

動けなくなる四肢を
動いてしまう心に
かかえ続けるということを思った

静かな死を願ったひとと
その願いを叶えたひとは
もう一日をこらえようとする仲間を離れたとき
何にうつむいていたろうか

いつでも銃爪を引ける拳銃を
枕元に置いておけたら
それを引かない自由を選べるのだろうか

自分ならどうするか
と 問わない者はいなくて けれど
垂れ込めた雲の下では 
ちがうこたえを出してしまわないように
考えてはいけないのだったから

明日月曜の数字は きっとまた増えるけれど
林では 蝉たちがいっせいに鳴き出して
どん底を見た力士が 誉れを手にして
路の上に 光は強く動いてゆく

昨日から鰐している夫が 電話をくれて
どこかで財布を無くしてさ というぼやきが
夏の響きだ

八ヶ岳
覚 和歌子