7月1日(水)

こういう忙しい日に限ってこういうことは起るもので、机の下から出てこない。きょうおやすみするんだー。熱を測る。37.0℃。37.5℃あれば強制的に帰される。ちょうしわるいんだー。机の下から出てこない。ああ。机の下から出てこない。出てこない。あきらめて電話をかける。お大事にしてくださいね。じゃ、せんろつくろっかー。すこし線路をつくる。もっとおっきいのー。増設する。これ、のったよねー。またのろっかー。あれはいつだったか。このひと月のどこかのことだ。すこしゆるみはじめたころ。ひさしぶりに電車にのった。まず自転車にのって東京駅まで行って丸善で本を買って。東京駅から電車に乗って、山手線のあたらしい駅を見に行ったのだった。これー。あたらしい駅のあたらしい自動販売機で桃のジュースを買う。いちばん高いやつだった。180円もする。背の低いペットボトルにもかかわらず。べつのときのこと。これはつい先日のことだ。べつの駅で、おなじ180円の桃のジュースを買う。福島の桃の濃厚なジュース。でもそれを水色の電車の窓のところに置き忘れてしまう。まだ開けてもいなかったのに。あれは、赤羽から王子のあいだ。王子から都電に乗って鬼子母神前まで。

都電の王子駅は正式には王子駅前駅という。駅前駅って。そこから早稲田方面へ向かうとまもなく、飛鳥山をのぼる。都電の線路が自動車と同じ道路の上を走っていて、前を行く自動車といっしょに信号待ちをしたりしている。車と車とにはさまれて。車電車車って。鬼子母神前でいっかい降りてギャラリーに寄る。こんなポスターばかりの展示久しぶりにみました。そういえば、昔タロウナスさんで、トム・クルーズの映画のポスターだけが貼られた展示ありましたよね、あれはびっくりしたけど、あれは作家は、えっと…。眞島さん。そんなことを話して、それからもういちど都電に乗って、早稲田まで出て、駅を降りてすぐのところにあるギョーザ屋さんでギョーザを食べて、それから地下鉄の早稲田駅のほうに向かって、駅前に公園があった。そこですこし遊ばせて、それから東西線に乗って、帰ってきたのだった。

山手線のあたらしい駅から、となりの品川駅へ。東京駅で駅弁を買おうとおもったのだけど、閉まっていたのだった。それで品川駅へ出てみたら開いていて。とんかつ弁当か何か買って。ふたりでわける。常磐線に乗って、ボックス席で、がらがらの車両で、いま買った駅弁を食べたのだった。

さっきのギョーザ屋さんのあたりで左に折れると川にでる。神田川で、ここに芭蕉庵がある。たしか東京で三つある。そのうちの一つ。もう一つは家の近くにある。芭蕉庵のところの急な勾配にある神社をぬけると永青文庫がある。ここで2年ほど前に良寛の展示を見た。あれはフィンランドから帰ってまもないころ。フィンランドのラハティでおじゃました、地元の著名な詩人レアリッサ・キヴィカリさんのお家で、愛読しているという、良寛の本を見せてもらったのだった。英訳された良寛の和歌を、レアリッサさんは読んでくれて、とても好きなのだといった。その和歌がどんな和歌だったか忘れてしまったが、水が出てくる。川についての歌だったとおもう。

レアリッサさんに、別れ際、プレゼントをもらう。いろいろなものが入っている。レアリッサさんの絵、手紙、たくさんの蝶々を象った紙、それからムーミンのマグカップ。縁がすこし欠けている。わたしたち詩人っていうのは、このマグカップとおなじで、どこか欠けているものなのよ。

芭蕉庵から川沿いに江戸川橋駅のほうへすこし歩くと、椿山荘にでる。毎年ここの庭園でホタルを見ている。こどものとき、ホタルなんて見たことなかった。おとなになってから、30を過ぎてからは、毎年ホタルを見ている。今年はひさしぶりにホタルを見ていない。椿山荘の庭園は閉まっていて、電車に乗ることさえホタルのころにはままならなかった。

あのホタルが見られる郊外の田園が、ドラマの中で出てきた。一時期、毎年行っていたが、もう何年も行っていない。もしかしてあそこかな、とおもって調べてみたら、そうだった。それでひさしぶりにそこを訪れてみたい気もしたが、電車乗ることがはばかられるし、都外に出ることは禁じられていたのだった。それでホタルも、ロケ地めぐりも、あきらめた。

テレビドラマなどというものを、もう長い間(記憶しているかぎり、20年以上)見たことがなかったのだけど、この間、久しぶりに見てみたら、けっこうおもしろくてつぎつぎに見てしまう。今年はホタルも見られないし。ホタルの代わりに家でドラマを見ている。ドラマなどもホタルとおなじで、いろいろなひとたちが入れ代わり立ち代わり、明滅している。それをぼーっと眺めている。

新作のドラマが止まっているので、代わりに近年流行ったドラマの再放送をやっているので、とりわけおもしろいやつばかりが流れていたのかもしれない。「凪のお暇」を見て「中学聖日記」を見た。どちらにも女優のY・Yが出てくる。Y・Yは私の前の詩集にも出てくる(わたしが勝手に書いたのである)。たぶんわたしはY・Yのファンなのだとおもう。どちらもY・Yは主役ではないのだが、主役ではない、Y・Yが演じている人物の人生のほうが気になる。黒木華や有村架純よりも。もっとY・Yが演じている人物にフォーカスしてくれたらいいのにとおもう。それから、WOWOWのリモート制作ドラマで、大泉洋とY・Yの2人のドラマ「2020年 五月の恋」も見る。大泉洋が別れた元妻であるY・Yにまちがい電話をかける。そこから毎晩のように大泉洋とY・Yは電話で話すようになる。

ときどき、電話のぐあいで、相手の声はわたしに聞こえているのだけど、わたしがいくら話しかけても、わたしの声は相手に聞こえない。ちゃんと聞こえてるよ。返事もしている。だけど届いていない。しんだらこんなかんじかな。いつもそうおもって、しばらくのあいだ、そんな臨死体験を、予行演習として、しばらくつづけている。もしもし、もしもし。うん、うん、だいじょうぶ、きこえてる。こっちは、きこえてるよ。そのまま、はなしていて。ちゃんと、きこえてるから。

いくつかのリモート制作ドラマや短篇映画を見たが、もともとドラマや映画をみるとき、わたしたちは俳優と俳優が演じている人物を二重写しに見ている。リモート制作ドラマでは、俳優たちは自宅に居たり、自撮りをしたりしていたりする。いつも以上に、演じている人物と俳優そのものとの境界があいまいに感じられる。

昔、ルイ・マル監督の遺作で「42丁目のワーニャ」という映画があって、それはチェーホフのワーニャ伯父さんの舞台の練習風景を撮った映画で、ワーニャ伯父さんを演じる俳優たちは衣装ではなく、普段の稽古の恰好をしている。しかし、通し稽古で、ワーニャ伯父さんの人物たちを演じている俳優たちをずっと見ているうちに、俳優たちと演じている人物のどちらを見ているのかわからなくなってきて、映画を見ているのか演劇を見ているのかわからなくなってきた。

こないだ、待ちに待ちまくって、公開初日に勇んで見に行ったグレタ・ガーウィグの新しい映画では、グレタの前作でも主演を演じていたシアーシャ・ローナンが演じていて、その前作「レディ・バード」はグレタの自伝的な作品とされていて、そのグレタの自伝的な主人公を演じたシアーシャが、今回も、グレタが愛読してきた「若草物語」で、自分を重ねてきたであろうジョーを演じている。「レディ・バード」では、わたしたちは、シアーシャ・ローナンを見ながら、シアーシャが演じる人物(レディ・バード)を見ながら、そのモデルとなっているグレタ・ガーウィグを見ている。「若草物語」では、シアーシャ・ローナンを見ながら、シアーシャが演じているジョーを見ながら、「グレタの中のジョー」を見ている。かくも、あまりにも複雑な映画なので、わたしは一度ではとても見切れた気がせず、今日は7月1日で映画サービスデーなので、もう一度見に行きたかったのだが、今日はとてもそんな時間はなかったのだった。

複雑な映画といえば、ビー・ガン監督の「ロングデイズ・ジャーニー」をこないだ見た。公開されてわりに早い時期に映画館がすべて閉まってしまったので見逃していたのだが、舞浜の映画館でやっていて、見ることができた。ディズニーランドのやっていない舞浜駅は閑散としていて、イクスピアリにも人はまばらだった。逆にこっちのが夢みたいだな、とおもった。「ロングデイズ・ジャーニー」のわたしの見た回はほかに3人の客がいて、ソーシャル・ディスタンスはまず保たれているとみてよさそうであった。2時間強の映画の後半1時間が3D映画になる。映画の中で主人公が映画館に入る。主人公が映画館でメガネをかけたら、そのとき観客もいっしょにメガネをかけてください。とあらかじめ云われている。しかし、映画がはじまるとすぐに彼は居眠りをしてしまう。彼は、わたしは夢をみている。3D独特のハリボテのような遠近感は、夢の遠近感に似ている。似ていない。夢をおもいだしたときの記憶の遠近感に似ている。似ていない。フェリーニの映画を思い出すとき、3D映画の遠近感でよみがえるのだが、フェリーニの映画は3D映画ではなかったはず。さっき見ていた映画のことを、じゃなかった、夢のことをいま、おもいだそうとしているのだが、どうしても思い出すことができない。いつもどおり、呼吸がくるしくて目がさめた。目がさめてすぐに、日記のつづきを書かなくちゃとおもって、いまこれを書いている。夢のなかで、いくつかの丘を越えた気がする。

日記を書いているうちに、日記を書いているのか何を書いているのか、わからなくなってしまう。日々、記憶は増えていき、同じ電車に乗っても、いくつもの駅で降りたり乗り換えたりするので、そのたびに混線してしまう。2020年7月1日にもどると、線路は完成した。私は今日しめきりの原稿にふたたび取りかかるものの、またすぐに呼ばれしまいなかなか集中できない。テレビみる?プーさんみるかー。それで幸い、「くまのプーさん」とペンで書いているDVDがDVDの山のいちばん上にあって、プレイヤーに入れると、「くまのプーさん」と「ティガー・ザ・ムービー」の2本が入っている。ティガーの話、見てみる?うん。それでティガーの話を再生する。あ、プーさんだ!あ、ティガーだ!よし、これで1時間ちょっとの間は原稿に集中できる。ありがとうプー。ありがとうティガー。ありがとうクリストファー・ロビン。ありがとう100エーカーの森の仲間たち。

「くまのプーさん」のラストでは、もうじき学校に行くことになるクリストファー・ロビンが「大人になると何もしないってことができなくなるんだ」と淋しそうに言う。何もしないことができない。これから原稿を夕方までに送信して、雨が上がったなら散歩にもつれていって、それから部屋を片付けながら夕飯のしたく、その間に、19時からのオンラインミーティングの準備もしなければいけない、そのあと24時までに日記も書かなくては。請求書の請求も来ている。あのメールもまだ返せていない。明日までに印刷所にお金を振り込んでおかないと。忘れないように。何もしないことなどできない。

いまふりかえると、ステイホームの時期にはもうすこし時間があった。なにもしないこともできたのかもしれなかった。それでもずっとなにかをしてしまった。ドラマもたくさん見てしまった。もったいないことをしてしまった。気が付くと、床いちめんに、チョコクリスピーがばらまかれていて、はんぶんくらいは、すでに踏まれて粉々になっている。飛び跳ねた、ティガーが踏んづけたのだとおもう。チョコクリスピーの海をかきわけて、いくつもの電車が走りつづけている。わたしはつぎの電車に間にあいたくて、シアーシャのように駆けだした。

東京・深川
カニエ・ナハ