1月31日(日)

へんに早朝に起きてしまうか、いつまでも寝てしまうかのどちらかになっている。今日は起きられない日だった。からだを使った規則正しい仕事がしたい。冬が遠ざかりつつあって草木が小さく芽吹いている。家内が家の不要物をがさがさとまとめている。ちょっとした模様替えのために家内とikeaに行くことにして、珍しく娘もついてきて、買い物の後に50円のソフトクリームをマスクをめくりながら三人で食べた。店内は不安を感じるほどの混雑でこれで緊急事態なのかと思う。しかし日毎の感染者数は順調に減少している。予定通り2月7日で解除になるのではないかという淡い期待も湧いてくる。政治家が銀座で夜遊びしていることがバレて謝罪している。謝り方が気に入らない。放置されるならすべての議員は同罪だと思う。
何を考えるにもあと一年は続く、それまではもっとひどくなる、自分も家族も感染する、その想定で予定を考えるということを自分に念押しして、これまでマスクはあくまで今だけだという気持ちもあり使い捨てを使ってきたが、もうメガネが曇らないような洗って使うしっかりしたものにしようかと考えている。
なんでも慣れるものだと感心してしまう。戦時中の暮らしはフィクションのようにしか感じられなかったが、そうか慣れるんだなと思うようになった。
気がつくと抱えている案件が溢れはじめていて、すべてが止まった半年前とは違ってきている。適切な間で発言して誘導すべき会議がどれもリモートなのがすごく苦痛で、リモートでなければこんな結論ではないのにと思うケースが増えて無力感がある。
長男がuber eats で配達をはじめた。分散する配達員を破綻なくオペレーションするシステムが完全にゲーム感覚で感心する。ほぼはじめてのバイトに出かけていく息子の様子をていると10代の頃の気持ちが一瞬蘇ってくる。そこから40年後の疫病の年を眺め直すと驚くことができる。

東京・世田谷
松田朋春



1月30日(土)

標準的な無煙ロースターを設置した焼肉屋では3分ほどで店内の空気がすべて入れ替わるらしい。入店前に両手をアルコール消毒し、検温を行う。顔を映してピッとやるタイプの検温装置はわたしをなかなか認識してくれない。たまに、飛んだり跳ねたり両手をあげないと通してくれない自動ドアがあるが、検温装置はもっと頑固だ。無視されたわたしは近づいたり遠のいたりしてみるが、画面は緑にも赤にもならないので、すこし悲しくなってしまう。そういえば、最近すっかりみかけなくなったペッパー君はどうしてこの役目を担っていないのだろうか。労働ロボットの役割としてはぴったりだと思うのだけど、いまごろはみんなどこかの倉庫でうなだれて眠っているのだろうか。新型コロナのことも何も知らずに。ペッパー君を街のいたるところでみかけた頃は、その姿と疲れを知らぬ表情に労働ロボットのみじめさを感じていささかぞっとしたものだった。でもいま、こうして彼がいればいいのにと思う時には、もうどこにもいないのだ。わたしたちみんなもペッパー君みたいなものだったらどうしよう。焼肉ランチはとてもおいしかった。一日遅れの肉の日だった。

東京・つつじが丘
河野聡子



1月29日(金)

西の風 強く 
海上 では 西の風 非常に強く 
くもり 所により 雨か雪 で 雷を伴う
波 4メートル 後 3メートル
1月29日 満月

空気に 見えないウイルスがひそんで いる
それに セシウム137 や トリチウムだって
おそろしい から
口 鼻 目を ふさぐ
見えないものは わからない
魂も 見えないけど あるの?

ここから 魂が 見えないように
ここから 満月は 見えない
玄界灘の 荒い波のうえ 冷たい空に月は あるはず
人は 都合よく 想像力を使う

だけど 天気も ウイルスも 月や星も
人の都合では 存在しないはず
文明は しょせん人の玩具
魂も 玩具にはふさわしくない
西風が強い 月は 白いか青いか 不明だが
ぼくは招かれざる客 だろうから 文句は言わない

福岡市・薬院
渡辺玄英



1月28日(木)

なじまない宣言
法規にうやむやに手渡された
再びの自粛に我々は
乗り方を忘れた自転車のように
日常をひと月まごつかせている

とはいえ
私のいる神奈川県は
病床率が逼迫してるし
全国のあちこちで
どこの病院にも受け入れられなくて
自宅療養中に亡くなる人が
日々増えてしまっているのだし
EUは昨日
入域許可リストから
日本の除外を決めたというから
やはり私たちは
事態の中にいる

家の近所の道を歩く
観光通りの「すばな通り」
駅から江ノ島へと向かうこの道で
長く続いた古い店が
ここ一年でいくつも閉店した
昨年、オリンピックを当て込んで
満を辞して出来上がった
ひそかに最後の日に集まった
大工の人々や関係者が
錨のオブジェを誇らしげに置いた
モールはテナントが集まらなくて
今年マンションに建て替えられる

そうした閉店の張り紙や
工事予定の看板の行に
少しも明記されることのない
堪え難い困窮や
おびやかされる生存の無数を
ささいな疲労と批評とで
見過ごしかける一年が
今年もまたこの国で
足をそろえてはじまってゆく

神奈川県片瀬海岸・江の島
永方佑樹



1月27日(水)


呂律が回らないけど
脂肪が完全に燃焼するまで
羽ばたきするよ
約束

通りかかる隕石が
羽に火を

焼き尽くすまで
         滑 翔 す  る
天に日没のデザート

日付変更線が何と言っても
いつも
夜を先に試して大陸で
黄泉の水に生きていた
親友という生き物
この次元で干からびる

蕾が 
一個 
一個
空に
どんだけ萎んでいっても
地下茎の格子の上に立ち
蛇足で不要な記号を
ただただ
あおぎたい

東京・竹橋
ジョーダン・A. Y.・スミス



1月26日(火)

年明け早々、古代のイギリスへ攻め入ったバイキングか
それより何万年か前、氷河のなかで
マンモスを取り囲んで叫んでいた原始人よりも
もっと野蛮な男や女が
壮麗な建物の扉や窓を打ち破って闖入してゆくのを観た。

かと思ったら今度は、奴隷の末裔で、
シングルマザーに育てられたという痩せっぽちの黒人少女が、
長じて、かつてその座に就くことを夢見た場所で、
今その座に就いた男を寿ぐために
詩を読み上げるのを聴いた。

そのふたつは、正反対の光景だったが、
どちらも「we」という主語で話していた。英語の「I」には
誰がなんと云おうと私は私、という強烈な自己主張が感じられるが、
「we」と云った途端、共同体の意識が立ち上がる。
「we」はそれを構成する「I」とも、他の「we」とも対立的な緊張を孕んでいる。

私が住んでいる島国には「we」がない。あるのはただ「私たち」とか
「我々」で、どちらも「I」の寄せ集めに過ぎないが、
その「I」もえてして省略される。自ら「みんな」のなかへ隠れてしまうのだ。
「みんな」は一人称複数のように見えるけど、実は三人称単数で
時に王となり神と化して「私」を圧し潰す。

戦争が始まった時だけは、この島国にも
敵という「外部」が出来て、お陰で「we」が生まれた。「日本人」とか
「天皇の赤子」とか名乗る「we」が。それまで不遇をかこっていた詩人たちは、
「we」の口舌と化す機会を授かって大喜びだった、『辻詩集』。
戦争が終わったら、みな知らんぷりだったけど。

コロナも「敵」ではある。だが人類全体の敵なので、
「we」の方でも身に余るのか、今のところ立ち上がる気配はない。
「I」と「I」の間はスカスカで「不安しかない」し、「頭のなかは真っ白」らしい。
富裕層と貧困層、都市部と田舎、資本と労働力の「分断」は
巧妙に隠蔽されていて、「対立」もない代わりに「団結」もない。

それでも箱のなかのアマオウたちは一糸乱れず整列している。
ガラスの密室に監禁したペットの仔猫の世話をするお姉さんは慈愛の眼差しだし、
アベノマスクで口を塞がれ、Go toのはした金で横ッ面を張られても
国会議事堂へ殴りこみをかける者はひとりもいない。
猫も杓子も「おうち」でほっこり。

パンはひたすら甘い菓子と化してゆき、
「~させていただきます」の連発で語尾は長くなるばかり。
コロナで死ぬより、生き延びて「人に」迷惑をかける方がずっと怖い。
画面越しなら笑顔でメッチャいいを連発しても、
リアルで目と目は合わさない。

組織への所属や所得の階層や消費行動のセグメントはあっても
この島に鬩ぎ合う部族たちの形が見えない。
闘いと祝祭の雄叫びが聞こえない。
そのことが平和の証なのか閉塞なのか、進歩なのか頽廃なのかは知らないが、
「we」のない人生はコロナが何十年も続くに等しいのではあるまいか。

夕方、道路沿いの公園で、大勢の子供たちが飛び跳ねていた。
まるで目には見えない巨きな波が、未来から
打ち寄せてきたかのように、息を合わせて。ただ一つの歌の調べに
身を委ねるように、ある者は笑いながら、また別の者は生真面目に前を睨んで、
同じリズムで跳び上がっては、一斉に屈みこんでいた。

車の中までは届かなかったが、
きっと誰かが、どこかで、数を数えていたのだ
青でも赤でも、白でも黒でも黄色でもない透明な波長を響かせて。
私は、いかなる種類であれ、「we」を主語として詩を書こうとは思わない。
でもその声になら、喜んで私の「I」の弦を共振させよう。

​​​​​

横浜・久保山
四元康祐



1月25日(月)

濃厚接触はどこからが濃厚な接触なんだろう
クラスターはなぜ6人じゃなくて7人からを言うんだろう
極細の長い綿棒を舌の上にあてながら考えた
もしも陽性だったら何が変わるんだろう

わたしの後ろに並んだ鰐は
必要以上に口を大きく開けて検査員をまごつかせている
それでもぎょっとされたりしないのは
三人あとに行儀よく並ぶ小柄な鰐を見てもわかるように
鰐化する向きがここへきてもうそれほど珍しくないからだろう

空いたテーブルをてきぱきと消毒している検査員は
「検査結果は今日時点だけのことです」とおしえてくれた つまり
潜伏期間に関しては諸説あって正しい知見はない つまり
明日陰性の結果が出ても明日はもうあてにならないということ 
検査の意味あんのかな

でもまあね 
陽性を今わかっておくだけでも
余分な迷惑をかけないですむという場面は増えるだろうから 

検査場に来る途中
水の流れの両脇に薄い氷を張る川の
小さな橋を鰐と渡った

わたしと濃厚にかかわるひとたちは 感染しちゃった親しいひとも 
それぞれ厄介ごとの圧倒的な闇を抱えながら 
同じだけ大きくて強い光を育てている
そのことはいつでもわたしの誇りで
それを眩しすぎると感じない自分にも本当は胸を張りたい

身体は弱いしHSPだしそのせいでむかし鬱にもなったし母は認知症だし
それなりの不安も執着もわたしにはあるけれど
ただひとつ 
死ぬことの恐怖だけは手放せている
きっと死んだからといって終わるものはなくて
いのちというエネルギーは途切れないだけの意味を宿している
その意味を考えることは面白いから面白い方をわたしは選ぶ
死んでも死なないその先が本当にもう楽しみでしかないせいで
日々はそれまでの手強くて甲斐のあるダンスフィールドだと思ってる なんてことは 
誰にも言えずに
細長い綿棒で舌をそっと押さえつけている

検査場からの帰り道
小さな橋のたもとの薄氷は溶けてしまって
流れの音が浅すぎる春をうたっていた
いつでも本当のわたしは向こう岸にいると思う
そこから自分とこの世を見ているわたしは ひとのかたちをしていない
守らなければならない 責任を持たなければならないものがあるあなたは
いくつ心があっても足りないだろう

ややこしいのは鰐が陰性でわたしだけが陽性だった場合だな
二人とも陽性だったら家から出かけないでいればいいだけのことだけど
もし入院できなかったら鰐を感染させないために生活空間をどう分けようか
いくつか高座がある鰐を八ヶ岳に行かせることは現実的ではなくて
かと言ってわたしは移動できないわけだから
しばしの間 家の中でマスクをして黙食して黙動するんだな 筆談とかも
おしゃべりなのはわたしの方で 鰐はそれほど不具合がなさそうだけど
いつでも少し緊張し続けているのはかわいそうだな

というほとんど同じことを鰐も考えていたと
二人ともに(今日限定の)陰性結果が出たあと知って
わたしたちはマスクの中で吹き出した

「誰もがそれぞれの葡萄の樹の下に 無花果の樹の下に座り
何にも恐れたりしていないところを思い描きなさい」
アマンダ・ゴーマンが引用した聖句をわたしは別の解釈で引用したい
それぞれの数だけ それぞれの選択の数だけ宇宙があって
わたしたちは自らのそれを豊かにも荒ませることもできる
心を尽くした具体的な想像は 現実を動かせる物理的な力であると知りなさい

                          

※HSPは近年提唱されるHighly Sensitive Person (反応過敏傾向)の略。1/20米国詩人アマンダ・ゴーマンがバイデン米国大統領就任式で自作詩を朗読。

東京・目黒
覚 和歌子



1月24日(日)

痛みなく上滑る今日は曇天で
手にするもの目にするものがつるつると滑っていく
制限をかけて素直に減っているらしき数字を追っても
ぽたぽたと滴っていく
そういえば数字ばかりを観察する習慣ができた

これはもしかしたら
悲しさなんじゃないだろうか

悲しさは 
悲しいと思う私がいて
悲しさになってしまうのだけれど
今日の私は軽やかさでも楽しさでもなく
悲しさを選んでいるのだと思う

曇天を見上げて歩けば
頭の重みに沈んで湾曲していた首が驚いて
歩くごとに反対側の軌道になじんでいく

涙がこぼれないことよりも
知らない筋道に気づくこと
解放をたぐることの方が
ずっと大事だ

空の雨は止んでも
山が水を含ませて
湧き出てくること
湿り気のある土を
踏みかためること

何にもない場所にある何でもあることが
今日もまた囁いているのに
遠ざかる約束の音が
ずっと大きい

大分・耶馬溪
藤倉めぐみ



1月23日(土)

朝から昼にかけて
小雨が降っていた
このような日は
街が少し静かになる
雨音の方が前景化されて
人々が出す音は目立たなくなる
そうなると
軒先に出されたまま濡れている花とか
雨を走る自転車とか
自分自身の
小さく変動する体温とか
微細なものに気づく
明日はどんな天気になるのだろう

福岡・博多
石松佳



1月22日(金)

悼むよりも先に声高に叫ぶ克服の証としてわずか二ヶ月後に人間そのものの悪が語られる科学的に論理的に考えてありえた事実を見ないようにして安全な場所へ移動する祈るしかないのだと言ってもよい具体的な作業の積み重ねだけが希望になる。

東京・調布
山田亮太