3月11日(木)

一年ぶりにミュンヘンに戻ってきた。松田さんから「空気の日記」への誘いのメールが届いたのが2020年3月28日、ミュンヘンから着いた羽田空港の検疫で、前日導入されたばかりのPCR検査の長い行列に並んでいた時だった。当時と同じようなロックダウンが今も行われている。開いている商店はスーパーや食料品店、テイクアウト用のレストラン、理髪店、病院に薬局くらいだ。店内や電車・バスの中では、FFP2という高性能規格のマスクの着用が義務付けられている。一年前は誰もマスクなんか付けていなかったから、記憶の中のドイツと比べるとその光景が異様に映る。だが一歩外に出ると、みんな忽ちマスクは外してしまう。屋外で着用しても意味がないという判断が共有されているのだろう。小雪のちらつく野原を、厳密に1.5メートルの距離を取り合いながら、剥き出しの素顔が行き交っている。今度はその光景が妙に刺激的に見えてくる。

同じウィルスを相手にしているのに
どうしてもこうも違うのか?

危機を前にした時の
ルールの決め方、説明の仕方
その適用の(ほとんど偏執的な)厳密さと
それゆえの(容赦なき)
明快さ。

受け入れるにせよ
反対するにせよ、赤裸々に迸り出る「個人」の主体性。

対照的に、限りなく曖昧で緩やかなのに
訳もなく重苦しくて
へとへとに疲れ果ててしまう国。

地球規模で襲ってきた災厄は
人類が一蓮托生の身であることを思い知らせ
万国共通のテクノロジーで繋ぎながらも
むしろ暴き出す、

ひとたび「個」が群がって
「国」だの「民族」だの「文化」だのに構造化された暁の
絶望的な隔たりを。

皮肉な話だ、
「換気」と「開窓」が合言葉だったこの一年は
母なる国の「空気」を一層密にし、
内圧を高めてしまった。

どうすれば
風穴を開けることができるのだろう?
またしても、白色矮星のように
ぐしゃりと内部崩壊して
心機一転、ゼロからの再起を図るしかないのだろうか?

1868……1945……
2011………奇しくも今日で十年。

あれほどの恐るべきエネルギーが放出されても
びくともしなかった、
集団幻想。雨降って地固まるの
草の根ファシズム。

「ニッポンは今度こそもうダメかも知れないよ」
「ヨーロッパだって、ボロボロだよ」

雪融けの野を横切りながら、
この一年、一度たりも泥の上を歩いたことがなかったことに気付く、
どこもかしこも
安全と衛生と貨幣で塗り固められた郷土の貧困。

冬枯れの樹木の枝のあちこちに
コロナウィルスそっくりの寄生木の毛玉がこびり付いている
靴底に纏わりつくぬかるみの優しい感触だけが
今日の終わりに相応しい。

ドイツ・ミュンヘン
四元康祐



3月10日(水)

ひさしぶりのオフィスで資料の片付けをした
いろいろ変化があってレイアウトも変わるので
古いものは処分しなければならない
いろんなもの作ったな
「顕微鏡で読むガラスの詩集」も出てきた
たくさんモノに触って
この一年で手荒れが進んだことに気付く
そう、一年経つのだ
そしてもう一年後も同じだったら
それは想像ができない
今日は東京大空襲があった日だ
両親は下町でなんとか生き延びたのだった
小さい頃、親からも親類からもたくさん話を聞かされた
伝えなければという空気を感じていた
私はそのバトンを家族に手渡すことができていない
2020年の日本経済はマイナス4.8%だったという
もう驚かなくなった
経済という人間の
約束事の話だ
経済は空気だろうか
それがウイルスという
生物ですらない空気中の物質によって
変化した
空気と
空気との間で
とじこもるしかない我々は
まぼろしのようだ

東京・世田谷
松田朋春



3月9日(火)

諍いもできない夜が
この地球上でいちばん重たい夜だ

わたしが空気を通すほどあなたは重くなって
あなたが空気を阻むほどわたしが重くなって

頬に涙が垂れるだけで
どれだけ涙を貯めたとしても
あなたがしなかった分だけの重さと
わたしがしてしまった分だけの軽さの
釣り合いがとれない

なすべきことはいくらでもあるのに
縮こまったまま夜を抱えて
曇天が灰色になる頃に必要な場所の扉だけ開けて
また布団に入った

時折通う料理教室から再来月のお誘いが来ていて
すんなりとそのまま快諾する

こうしませんか
そうしましょう

2階の窓に小石をかすめるぐらいの強さが
願い事にいちばんいい

夕方にさしかかる頃に
竹ぼうきをもって山の中に入ろうとしたら
アサヱさんが
なずなや
まだ名前の知らない青い花が広がる畑に
丸くうずくまって
草をむしっていた
とてもきれいだった

「あんた一人でやまんなか入るんか」
「うん」
「おばけが出ることないかい」
「まだ出たことないよ」

山に吸ってもらいにいっているわたしが
おばけなのかもしれない

スギの葉が堆積した墓には
育たなかった子に捧げたネクターが
まだ置いてあって
揺れる杉がきぃ、きぃ、と鳴いていた

大分・耶馬溪
藤倉めぐみ



3月8日(月)

ふだん、夜は外食することもあったが、
最近はずっと家で自炊をしている
野菜を切ったときの新鮮な匂いが好きだ
外ではマスクを着けているから
部屋では本当の呼吸ができる
慣れることはよいことなのか、
そうでないのか分からなくなる
薬缶で麦茶を沸かす
空気に
香ばしいあの匂いが混じる
すると
少しだけ夏を思い出して
今年はどんな夏が来るのか、
などと思ったりした

福岡・博多
石松佳



3月7日(日)

恵比寿まで出て、映画と写真を鑑賞する。模範的東京都民である私は、外出機会の七割減を心がけ、週末のうち少なくとも一日は自宅で過ごす生活をつづけていたのだった。それが、ここに来て二日連続の外出である。

事態が異なっていれば、もっと遠くまで行っていただろうか。十年という時間に勝手な意味を見出し行動を起こそうとする心性は愚劣だ。だが模範的東京都民である私は、自らの愚かさを噛みしめるためにきっと足を運ぶのだろう。

この目で見たものを、この耳で聞いたことを、人に伝えようとして、私は私のからだを移動させる。

東京・調
山田亮太



3月6日(土)

美しい350頁の詩集ができあがるとともに
実家のリフォーム工事も何とか終わり
このタイミングで
20年ぶりに家族4人で引っ越すこととなった
自転車で10分くらい南の街へ

とんでもない数の段ボール箱
二軒分のあれやこれやが詰まっている
もともとあった書籍とそれ以外
西荻から搬入された書籍とそれ以外
部屋がまるまる二つ
天井まで埋まっている

その家をそーっと抜け出して
二人の娘をまた西荻に送り届ける
フレンドリーな暗いカレー屋のマスター
どろっとしたあまり辛くないバターチキンができるまで
サラダとともに白いラッシーを細い細いストローで吸いこみながら
ひたすら待つとしよう

そんな贅沢な時間が
この街にはあった
ぼくのモラトリアム時代、さようならさようなら
懐かしの西荻台マンションよ、さようならさようなら
風景がどんどん加速して遠くなっていく
教会の先には美容室
レンタカー屋ラーメン屋絵本の店
プラタナス並木の甘い香りがあった
洋品屋古道具屋そして古本屋のある街
何冊の画集をぼくはここで求めただろう

ばいばーい
とアジア系のマスターに送られて
いつもの坂をあがって駅へと急ぐ
ばいばーい、また来てね
どうぞ元気で、また会う日まで

うちの緑の椅子が
もう古道具屋の店先に出ている

視線がジモティーから
観光客のそれに
変わるころ
ぼくは
ようやく西荻窪の駅についた

さあ、ぼくよぼくよ
コーヒーを買って総武線に乗ろう

東京・西荻窪
田中庸介



3月5日(金)

明日
と言ってもこれが公開されるのは来週水曜日の予定だから
先週末
琉球新報に
震災から十年に際してという欄に拙文を寄せていて
今日の昼はゲラをやりとりしていた

これは
書きはじめてすぐ
こわばった調子で文章が硬くなっていくのを感じながらいた
そして
まだじぶんのなかのわだかまりが
というか傷が
十年だかなんだか経っても
きえさったというわけでは全然ないことに気づいたんだった

添える写真をと請われ
引っ越し荷物の中から現像済みのフィルムのファイルを漁ると
出てきた写真が
二〇一三年の三月にいわきで撮ったものが出てきて
八年前だというのに
ネガをスキャンして見たときは
これ一六年かな
いやもっと最近だな一八年かな
などと思ったけれど

撮った時期をじっさいに訊かれて
同じフィルムに写ってる島での様子から推しはかると
かなり以前のものとわかった
八年か
ずいぶん昔だな

、てそう思って
この
十年という長さより
八年を遠くに感じたのは
たぶん具体的な物が
ぼくと被写体であるその物を日常的に用いる人との関係をともなって
そこに写っていたからだと思う

ねぇ
でも これ、て 詩なの

ほんとうは
いま 詩から遠いのかな
、てちょっと不安になる

新しい場所へ来て
不慣れな生活を一からはじめて
まだ足下がおぼつかない
だけじゃなくて
これ いまこの書いてるこれ
、て
言葉が地に足をつけてない感じする
こんなにも不安定 、ていうか 足が地に届かないの なんで、て

島にいるときは
島での日々が詩だって
思えてちゃんと
じゃあ いま 詩は ねぇ どこ 、て
なってるの は たぶんどことも ぼくとこころが どこともつながってない 、て感じてしまう せい そのせい

架空の時間で かりそめの生活を 送ってるわけじゃないのにも
そう感じられてしかたなくて

ここは どこなんだろう
まだ わかんない わかんないや どこか どこなのか

みんなあたりまえに地名を口にできるしする
ぼくだって言える どこどこ市なになに町いくついくつの て

あ、
でも島にいたときの感覚がすっぽりと抜け落ちちゃって
この宙ぶらりんな感じ 、て
ああ これは これは多分 ぼくは島に守られてたんだな 海にかこまれて ということは いつでも見回せばどこかしらに 海が見えて 月だって近かって そう いまが何日月か 部屋の中にいても 月の力で ぐい、て 感じられた気がした、て

そういうのから
はなれたんだよ

そういうのから遠く はなれたとき見えてくる島の ぼくにしてくれてきたことが あったんだよ

じゃあ
いまどこか
夜 道を走る車の音がするしてる少しずつきえてって
車の音が静かで ここの夜がとても静か
ああ 足をつけなくては
こうやってみんな すぐ浮き上がってしまいそうな足を からだを 地にくっつけて 懸命にくっつけようとして やってんだな そうしないと すぐ 浮き足立って いられなくなるから

ふぅ 、て
とんでも とばされても
いい気がしてしまうくらい

もうここでは軽ぃくて
なんにもない わけじゃない のに どこにもまだ 足
つけなくちゃ
ね ふぅ 、て
また次 とばされてもいいように

移動中
白井明大



3月4日(木)

子供のいない
わたしたちには
はまぐりのお吸い物も菱餅も
用意する理由がない昨日を過ぎて

キンセンカの茎を
斜めに切りおとした

ひとつが枯れて
ふたつが咲いて
残酷だと思う

不規則なねむりの意味や
首を揺らしつづける過程や
おなじページをめくっては
赤字で書き込んでいく
わたしの日々は、

にんじんを薄くうすく切り
いつかパリで食べたサラダを
つくりはじめる夜に

カーテンのそとは
断絶された世界で満ちていた

降りすぎた雪が
覚悟のないまま溶けていく

※札幌市は、新たに新型コロナウイルスの感染者が20人確認されたと発表した。

北海道・札幌
三角みづ紀



3月3日(水)

夕方
帰った

モコが
待っていた

車を停めると吠えた

ドアを開けると
ソファーから駆け降りてきた

おしっこをさせる

TVニュースで
首都圏は2週間延長という


帰ってきた

コールスローサラダと
焼肉と

作ってくれた

ごはん
食べた

熱いお風呂に眼の下まで沈んでいた
お湯の水面を見てた

パジャマを着て
ドライヤーで髪を乾かした

クリームを塗った
歯を磨いた

ソファーでモコと眠ってしまった

空気の日記・・・

空気の・・
空気

目覚めた
昼に見た

メジロの白い縁どりと
緑の体と

ヒヨドリの影と

あの女の人のふいに横を向いた一瞬の顔のこわばりと

光景が
思い出された

空気

吸っていた
吐いてた

静岡・用宗
さとう三千魚



3月2日(火)

すごい雨で沈丁花や、やっと咲き始めた木蓮が散ってしまわないか心配。
いつもは自転車でいく駅までの道を歩くと、街路樹の根もとにいつのまに、ナズナやヒメオドリコソウが咲いていたことに気づく。タンポポも一輪、咲いている。
帰りに渋谷に寄ってaikoの新しいアルバムを買う。特典でノートがついてくる。レコード店ごとにそのデザインが異なり6種類ある。タワレコでBlue-rayつきの初回限定盤を買って、TSUTAYAでCDのみの通常盤を買う。ノートを2冊入手する。良い詩を書きたいとおもう。
20年以上のながきにわたってaikoのうたを聴いている。変わらずほぼほぼ恋愛のうたのみを、その機微を、微に入り細を穿ち描きうたいつづけている。
西脇順三郎の詩集『旅人かへらず』の「はしがき」にこんな一節がある。
「自然界としての人間の存在の目的は人間の種の存続である。随つてめしべは女であり、種を育てる果実も女であるから、この意味で人間の自然界では女が中心であるべきである。男は単にをしべであり、蜂であり、恋風にすぎない。」
引用部分だけだと時代遅れな二項対立ととられかねないが、西脇は自らの(そして人類のだれしもの)内に女性と男性とがあり、この詩集は(というかおそらくどの詩集も)自らのうちなる女性による、詩のことばによる生の記録である、というようなことをいっているのだとおもう。
aikoのうたもまたここでいう「恋風」のようなもので、「必然的に無や消滅を認める永遠の思念」(同じく西脇の「はしがき」より)をはらんだ、人類の存在の普遍的な寂しさにふれた、うたたちなのだとおもう。
西脇の「はしがき」の、先に引用した部分の前には、
「路ばたに結ぶ草の実に無限な思ひ出の如きものを感じさせるものは、自分の中にひそむこの「幻影の人」のしわざと思はれる。」とある。
道ばたの花のように、あるいは花をゆらす恋風のように、われわれの日常のかたすみに寄り添い彩る、aikoのうたたちである。

東京・冬木
カニエ・ナハ