3月5日(金)

明日
と言ってもこれが公開されるのは来週水曜日の予定だから
先週末
琉球新報に
震災から十年に際してという欄に拙文を寄せていて
今日の昼はゲラをやりとりしていた

これは
書きはじめてすぐ
こわばった調子で文章が硬くなっていくのを感じながらいた
そして
まだじぶんのなかのわだかまりが
というか傷が
十年だかなんだか経っても
きえさったというわけでは全然ないことに気づいたんだった

添える写真をと請われ
引っ越し荷物の中から現像済みのフィルムのファイルを漁ると
出てきた写真が
二〇一三年の三月にいわきで撮ったものが出てきて
八年前だというのに
ネガをスキャンして見たときは
これ一六年かな
いやもっと最近だな一八年かな
などと思ったけれど

撮った時期をじっさいに訊かれて
同じフィルムに写ってる島での様子から推しはかると
かなり以前のものとわかった
八年か
ずいぶん昔だな

、てそう思って
この
十年という長さより
八年を遠くに感じたのは
たぶん具体的な物が
ぼくと被写体であるその物を日常的に用いる人との関係をともなって
そこに写っていたからだと思う

ねぇ
でも これ、て 詩なの

ほんとうは
いま 詩から遠いのかな
、てちょっと不安になる

新しい場所へ来て
不慣れな生活を一からはじめて
まだ足下がおぼつかない
だけじゃなくて
これ いまこの書いてるこれ
、て
言葉が地に足をつけてない感じする
こんなにも不安定 、ていうか 足が地に届かないの なんで、て

島にいるときは
島での日々が詩だって
思えてちゃんと
じゃあ いま 詩は ねぇ どこ 、て
なってるの は たぶんどことも ぼくとこころが どこともつながってない 、て感じてしまう せい そのせい

架空の時間で かりそめの生活を 送ってるわけじゃないのにも
そう感じられてしかたなくて

ここは どこなんだろう
まだ わかんない わかんないや どこか どこなのか

みんなあたりまえに地名を口にできるしする
ぼくだって言える どこどこ市なになに町いくついくつの て

あ、
でも島にいたときの感覚がすっぽりと抜け落ちちゃって
この宙ぶらりんな感じ 、て
ああ これは これは多分 ぼくは島に守られてたんだな 海にかこまれて ということは いつでも見回せばどこかしらに 海が見えて 月だって近かって そう いまが何日月か 部屋の中にいても 月の力で ぐい、て 感じられた気がした、て

そういうのから
はなれたんだよ

そういうのから遠く はなれたとき見えてくる島の ぼくにしてくれてきたことが あったんだよ

じゃあ
いまどこか
夜 道を走る車の音がするしてる少しずつきえてって
車の音が静かで ここの夜がとても静か
ああ 足をつけなくては
こうやってみんな すぐ浮き上がってしまいそうな足を からだを 地にくっつけて 懸命にくっつけようとして やってんだな そうしないと すぐ 浮き足立って いられなくなるから

ふぅ 、て
とんでも とばされても
いい気がしてしまうくらい

もうここでは軽ぃくて
なんにもない わけじゃない のに どこにもまだ 足
つけなくちゃ
ね ふぅ 、て
また次 とばされてもいいように

移動中
白井明大