1月14日(木)

昼間散歩に行った
時々立ちどまっては、スマホに空気の日記を書きつけた
そこには
家の石鹸で洗うマスクの中にふわっとみちている
甘い許しの匂いのことや
視界に広がる春の光と
マスクを外すと冬という現実を告げてくる枯れ葉の匂い
枯れ葉と土を、その下から楽し気に動かす
見えない生きものの誰かさんのことや
ブロック塀の上で出会った
誇り高い王様のような猫の
生きている、そこにいる
気配の強さが書きとめられていた

でも
さっき、迷った末、その文章を今日の日記にするのをやめた

東京の新規感染者が1000人を超えた日も
それがほどなく二倍以上に膨れ上がって2000人を超えた日も
今夜のようには感じなかった

逼迫しているという医療
なにかよくなる要素はなにも見えない、今日の社会
ひたひたと
それがどんなにおそろしいことかが
口の中に遠くから、味になってやって来る
閉じた扉が限界まで膨らんでいるのを見る

足元まで水が来ている
日常のままの光景で水が進んでくる
だれも教えてくれなかった、その日、その時をどう感じればよいのか
どう対処したらよいのか
その光景が、甦える

親や親戚から伝え聞いた、
身内の人が、どんなふうに戦争に行ったか

思い出す資格が私にあるのかどうかもわからない
いくつものことが
映像になって押し寄せる

今日はそんなおそろしさを感じた
いつだったか、この禍いのはじめ頃に
ニュースに釘づけで、これでは保たないと思った
あの頃以来の
胸がずっしり塞がる夜を迎えている
たぶん決壊する
夜全体からそう告げられている気がする

そしておそらく
個人の希望というものは
それとは無関係なのだと知らされる
春の兆しの光のように
猫のように
今日の私たちひとりひとりのように
そうは言っても、
それぞれの人生をその日
あるいはその日まで生きるのだと
知らされる

千葉・市川
柏木麻里