11月27日(金)

久しぶりに終電近くまで残業する。会社から飲食店の利用を控えるよう通達があったので、コンビニでビールと弁当を買う。起床後、家の端末で業務を再開する。昨日の定時後に、月曜の午前中までに報告するよう指示された資料の目途が立たない。別で提出する予定だった資料と合わせて、土日のあいだに間に合うかどうか。休日出勤をしている上司に連絡を取り、方向性の調整を夕方までにできればと伝える。昼前に松田さんから「日記」の確認ができていないと連絡が入り、担当日を一日まちがえていたことを知る。後輩(添削担当)に「日記」用のメモを送る。しばらくして、後輩(添削担当)から連絡が入る。
――(後輩)どういうこと?
――(作者)元のテキストは用意したから、それを組み合わせて「日記」にできない? 今度お礼するので……。
――前にダメだっていわれたやつじゃん。
――テキストは「昨日の日記」で大丈夫なものしかないよ! 「今日の日記」だったらダメだとおもうけど。
――あ~、なんとなくわかりました。テキストは一平さんのだけ? 前に書いたやつは?
――べつに全部採用しなくてもいいし、すこしぐらいなら(後輩)も書いていいよ。
出勤途中、ひさしぶりに電車の座席に座ることができたので、会社の最寄り駅まで本を読む。頭の近くを飛んでいた虫がマスクの内側に入り込んできて、口のまわりで暴れはじめる。急いでマスクを外して虫を追い出すと、電車のなかの空気を感じる。昨日からずっと鳴りっぱなしだった大学の同期グループLINEを確認。やるかやらないかで話し合っていた忘年会が、いらなくなった服を持ち寄る会に変わる。持っていけそうな服のメモを送る。
・Tシャツ3枚
・ニット1枚
・カバーオール1着
・コーチジャケット1着
・パンツ2本
・靴下(未使用)1足
――(大学の同期)オレが持っていくやつだとアクネのパンツ、グラフペーパーのキャップ、マルニのニットなどがある。
――(なまけ)キャップほしい。
――(作者)ニット着てみたい。
ラーメン屋の前に置かれていたゴミ袋の中身が散乱していて、そこに大量のハトが群がっている。散らばっているのはキムチ。ハトが勢いよくついばむと、キムチの切れ端がポーン、ポーンと飛び上がる。あたりでいくつものキムチがはじけているのをスーツ姿の男が避けながら通り過ぎていく。横切るときにマスク越しでもキムチの匂いがわかる。曲がり角の向こうから、あたらしいハトが歩いてやってくる。
午前中、ECサイト各社がブラックフライデーを開催しているのに気がつく。買おうかどうか悩んでいた服が半額以下になっているものの、採寸がよくわからなかったのでブランド名や品番で検索し、着用イメージを収集する。海外のサイトを回っていたせいなのか、Googleの使用言語が急に日本語から英語に切り替わる。昼食(たまねぎラーメン、納豆巻き、豆乳)。今年の春から、昼食は必ずたまねぎラーメンを食べている。決められたお湯の分量だと味が濃いので、お湯は多めに入れる。規定量を示す線を越えてから5秒余計に注ぐ(分量は目視ではなく、時間によって知覚される)。麺がふやけたあとで粉スープと液体スープを入れる。液体スープを先に入れると粉スープは溶け残りやすい。溶け残ってペースト状になった粉スープと具の肉は見た目が似ていて区別がつけにくい。粉スープを溶かしてから液体スープを入れる。食べているうちに粉が沈殿するから定期的に底をかき回す。何ヶ月もくり返し食べ続けて把握した手続き。その味はどこかで愛着のようなものとすり替わっている。一口ごとにこれまで関わってきたたまねぎラーメンとの時間が折り畳まれていて、私はそこで私の身体を通過した時間、でなければ私が身に着けた技術そのものを味わっている……けれど、何度もくり返し失敗を経験するなかで、失敗そのものの方に味覚が慣れていったとしたら? 他部署の先輩が、――またお前たまねぎラーメンかよ、という。矢口高雄の話が出る。《釣りキチ三平》と検索すると英語で書かれたものが優先されて、《Fisherman Sanpei》の記事が候補に挙がる。それを見ていたべつの先輩が、――「釣りキチ」は訳されへんもんなあ、という。話題はしずかに、『スーパーフィッシング グランダー武蔵』の方へと移行する。
午後になって、他部署の人が仕事をやめて地元に帰ることを知る。家族の体調がよくないらしく、まわりの人の口ぶりから精神的なものが原因であることを感じる。最近はその人も調子を崩してしまっていたという。このあいだ自分もとても暗い気持ちになって、一日中家から出ないときがあったことを思い出す。夕方になってコンビニに向かった。途中で風が強くなってきて、大学時代のサークルの先輩に電話をかけた。先輩は『水曜どうでしょう』を観ていたらしく、いまさらパイ生地の話を持ち出されて逆に面白かった。最近すごくしんどくて涙が止まらない、コンビニに行くのはいいけど何を買っていいかわからないから、何を買ってどうすればいいか聞くと、酒飲んだら? といわれた。酒を飲んだらよけいに気持ちが沈んでしまう……それでも、赤星が売っていたから2本カゴに入れて(前に友達がよく飲んでいるといって飲んでみたらとても美味しかった)、チャーシューとメンマと味付けタマゴが入ったよくあるおつまみセット、アオサの味噌汁、コンビニ限定の棒アイスを買った。レジに並ぶときに電話を切った。電話でアドバイスを受けながら選んでいたせいか、レジの人にお箸は2膳でいいか聞かれたので、うなずいた。見栄を張ってしまった! ひとりで笑いをこらえながら先輩に電話をかけ直す。先輩は、そういうふうにプログラムされてるだけなんじゃないの? と笑った。赤星1本だけだったら聞かれなかったかもよ。
山本から、――●●さんから、一平さんの文章を引用した論文を書いた、その抜き刷りを送りたいから住所を教えてほしいとさ、と連絡が入る。住所を伝える。合間を見て、「三野新・いぬのせなか座 写真/演劇プロジェクト」座談会の文字起こし修正と、今後の撮影に備えて取り上げる話題を考える。
《次の座談会に向けた「戯曲」の草稿。
鈴木 今年の春から『スピナー』というwebマガジンで「空気の日記」というプロジェクトに参加しています。新型コロナウイルス感染症に引っかけて、「今日の空気」の描写を試みるという目的で、詩人が輪番制で割り当てられた日の日記を書くというものなのですが、このあいだそこで三野さんといぬのせなか座メンバーが沖縄に行った際に撮影した写真をもとに「日記」を書きました。といっても、写真をもとに考えたことを書いたり詩にしたりしたのではなく、写真に収められた被写体や看板の文字をひたすら列挙していく構成を取りました。それを書きながら、三野さんが今回のプロジェクトにあたって「イメージの距離」というものを詩において(また、制作者みずからにおいて)どのように「上演」できるか、それに向けた試みについて考えさせられました(一部を読み上げる)。具体的な話をすると、ぼくは沖縄に行かなかったので、写真のなかの被写体や風景とぼくのあいだにそもそも距離があります。そして、ぼくはなぜこれらの写真が撮られたのかについての根本的な動機を撮影者と共有していません。そのうえで、写真からあらためて言語表現を立ち上げたこと。これらのことは3つの距離を写真群と制作者=ぼくのあいだにつくりました。》
《まずは端的に写真が持つ視覚的なイメージと、それを記述しようとする行為者とのあいだの距離です。写真はあらかじめ記述されることを前提として撮られていません。看板などが代表的な例ですが、ところどころで途切れていたり遮蔽物があったりして判然とせず、細かすぎて読めない字などもある。看板の文字をひたすら文字にする方法は「みんなのミヤシタパーク」という作品でも実践したのですが、そこで看板と結んでいた関係とは異なる距離がここでは設定されています。後日談的に、山本からは「みんなのミヤシタパーク」を書いた鈴木への配慮があり、看板の写真をできる限り撮影したと話されましたが、すでに看板の文字が鈴木によって書き起こされることが撮影者に意識されていたことを念頭に入れても、私ではない他者の撮影行為が介在することで発生するノイズはどうしても避けられない。つまり、この配慮と現象のあいだの歪みはそれを知覚する私の視点を媒介することで生起する「わかりあえなさ」の視覚的なイメージとなっています。》
《この話から付随的に、というより言い換えとして引き出される次の距離は、撮影された写真に埋め込まれる撮影主体における主観性と、その記述を行おうとする制作者における主観性のあいだの軋みです。写真のほとんどは「なぜそれが撮られたか」を被写体の様子から確認することができましたが、なかにはなぜそれを撮ったのか本当によくわからないものがあります。ここで撮影主体と記述主体のあいだのイメージに対する注目が一致しなくなる。いわば、イメージに埋め込まれるふたつの視点のズレが、そのまま写真そのもののズレとして知覚される。あるいは「日記」を書くにあたって撮影された写真のすべてを記述するのは体力的にも時間的にも不可能であるという判断から、「スルー」した写真がありました。撮るに値したはずのものが、書くには値しないものとして受け取られるわけです。そこには一方的な無関心というより、体力的・時間的な限界として切り捨てざるを得なかったことで、遡行的に「無関心」が形成される点が重要であると感じます。しかし、のちに山本が撮った写真でフレーム外へと途切れていた写真がhによってはうまく収められている、つまり複数の撮影主体のあいだの撮影意図の差異が強調される組み合わせがあって、そこから無視したはずの写真を取り上げることに決める、という事態が発生しました。それぞれの写真はそのつどの契機において撮られ、「途切れた」ということは異なる興味においてそれらの写真が撮られたはずです。にもかかわらず、それらを記述する主体は複数の意図が点在するイメージ群を見て、事後的に書くことの契機を見出していったわけです。》
《すこし話は脱線しますが、今回撮られた写真と「日記」のあいだにはあんがい構造的な類似性があるというか、構造的な類似をつくっています。沖縄で撮られた写真はくり返し「なにかを撮影する人物」または「なにかを撮影すること」そのものを撮影するような意図が確認できます。この傾向を受けて、「日記」では「写真に収められた事物や文字を書いていること」を過度に強調する記述の方式を取りました。》
《最後の距離は、「写真を撮ること」と「詩を書くこと」のあいだの距離です(ここまで「日記」という語を用いてきましたが、当のプロジェクトではあくまでも「詩」として書いています)。当たり前の話をしてしまいますが、当該の「日記」を書く上で「写真」という語はほとんど記号を乗せる函数的なものになっていて、写真に収められたイメージについて語るというより、イメージを記述へと輸送するための装置として機能しています。つまり、「それが写真であること」が消去されている。それは「日記」を書くうえで採用したスタイルそれ自体の問題でもあるのですが、たとえば「砂浜の写真」という記述は、それがどのような色合いの砂浜であり、海はどのようにそこで存在し、まわりにどのような岩や植物が存在していたのかを捨象した――端的にいえば「沖縄」や「久高島」の「砂浜」が持っていた具体性(山本はたとえば色彩についての指摘をしていましたが)を、一般的な砂浜のイメージへと類型化している。それは「当事者性」への軽視であるともいえる。しかし、ここから撮ることと書くことのあいだの差異、つまり「写真について語りえること」がいかに当の写真から脱線していくかの問いだけではなく、写真を撮ることと撮られた写真のあいだの距離、または撮られた写真とそのイメージを知覚すること、イメージを使用(再-使用)することのあいだの距離――いわば、行為や流通、事物を媒介することで複数化される表現の問いへと返していけるのではないでしょうか。》
夕方にトラブルが発生して、定時までに進めようとしていた資料が滞る。定時後、上司から資料作成を指示される。

東京・飯田橋
鈴木一平