10月14日(水)

目が覚めて、両膝の痛みで立ち上がれなくなっているのに気がつく。昨日の帰り道に駅の階段から落ちた。そのときは内出血を起こした肘の方が気がかりだったのに。風呂に入って、出社までのあいだに原稿を書き進める。後輩(添削担当)から聞いた「日記」についての話は、そこからさまざまな問いを引き出すことができる。文芸誌やWeb上での「コロナ禍」を題材とした日記の氾濫は、SNSやブログといった日記的な媒体がすでに存在していたにも関わらず、あらためて日々の出来事や感想を書き記す技術が「日記」であることを強調するかたちで書かれ、発表されたという事態を意味する。ひとまずは、新型コロナウイルス感染症の世界的な流行に伴う社会状況および生活環境の変化によって、私たちの日常が非日常へと変わり、日常を書くことそのものが価値のあるものとして表面化したという事実は、とりたてていうまでもない。

日常が非日常化することで日記の需要が高まる傾向は、日本近代史では第二次世界大戦期に代表的な先例があり、兵士による従軍日記や、銃後の人々によって書かれた日記が挙げられる。西川祐子『日記をつづるということ 国民教育とその逸脱』(2009年、吉川弘文館)によれば、戦時期の日記は《戦争という非日常な事件が大きく反映し、退屈なはずの日記文の内容が生死とかかわってドラマチックになり、それを記述する文体も切迫した調子となりゆく傾向》があると述べられている(180頁)。この指摘は感覚的に理解しやすい。戦時中はしばしば兵士に対して日記を書くことが奨励されたし、学校教育でも日記はさかんに取り入れられたらしい。当然ながら、どちらも上官や教師という外部の視点の介入があり、さらには日記への介入をとおして書き手(兵士や児童)の内面を監視し、場合によっては「国民」としてのあるべき態度を強制され、それにふさわしくない感情や行為が書かれれば添削が入った(規範的意識を書記行為を通じて書き手に定着させようとする試みには、言文一致運動における「標準語」開発に共通する単一的な国民精神への志向もあるだろう)。そして、このような規範的意識の内面化は、しばしば書き手自身が主体的に推し進めているかのように仕向けられた。いわば、書き手の側も「書かれるべきこと」がなんであるのかを理解し、それに向けて自らの内面を律していくこと、みずから望んでそのような内面を獲得していく方向性がありえた。西川の著作に戻る。《戦時下においては、従順な国民を育成するだけでは不足なのであって、非常時体制にあって行動する主体として積極的に戦争参加する国民、つまり国家の戦争において自らすすんで死ぬ国民が必要とされる。近代の日記が行う主体形成教育に国家が着目しないはずはない》(213頁)。

戦争末期には紙不足により日記帳の流通が停止する(厳密にいえば、まったく売られなくなったわけでもないらしい)が、敗戦から1年を経た1946年には、博文館の当用日記が早々に発行されたという。当時の記録によればその発行部数は20万部にのぼり、紙の配給が限られていた状況を踏まえると、戦後も日記を書くことは国家的に強く奨励されており、国民もそれを求めていたと見ることができる。戦後の学校教育でも、一貫して日記の制作と指導は行われた。そこでは生徒の自主性を重んじつつも、やはり教師による介入と添削は絶えず存在し、「教育的に」ふさわしくない表現があれば、程度の差こそあれ、書き直しを要請された。それについて、西川は川村湊の『作文のなかの大日本帝国』(岩波書店、2000年)を引用しながら次のように総括する。《たとえば西洋語のサブジェクトが「主体」であると同時に「臣下」の意味をもち、呼びかけに応えて自発的参加をする主体であることが明らかになった現在、国民の主体的参加がなければありえない近代の総力戦において能動的な国民となり、すすんで死地に赴く兵隊となる教育がなされたのと同じ方法が、戦後再編成のための国民教育に用いられた》(233頁)。

規範の内面化が自らの意志に基づくものであることを主体に錯覚させるための、教育装置としての日記。それは、他国の事例ではあまり見られない、日本独自のものであるだろう。当然ながら、言語が主体の思考を伝達させる透明なメディウムであるはずはないし、書かれる上で生じる虚構化の過程を日記が免れることもありえない。しかし、主体に対してみずからの内面を言語化するよう強制するにあたって、日記はそこで書かれた内面が「虚構ではない(かもしれない)こと」の線をギリギリのところで主体に迫る。加えて、それは日記が「虚構ではない(かもしれない)こと」をみずからの表現の条件に据えている点で、幾重にもねじれてしまっている。おそらくそこに、日記が詩歌や小説といった「正統な文学ジャンル」と同等の位置を持たないこと、あるいは「正統な文学ジャンル」として定義化しようとする試みを決定的に不毛なものにさせる要因があるだろう。

「コロナ禍」において日記の制作を国家が推奨したり、そのようにして書かれた日記に対して直接的に権力が介入したという事実は、筆者の知る限りでは確認できていない(教育現場において「コロナ禍」におけるみずからの生活を日記で書くように課された事例はあったのかもしれない)。しかし、「コロナ禍」以前の日常とそれ以後の日常との連続性に(「戦前ないしは戦中と戦後」のように)断絶を加え、後者を「新しい生活様式」として編成しつつ、新たなる様式への適応を国民に要請する日本政府の身ぶりが日記の氾濫に拍車をかけた側面は、否定できないようにおもう。そしてまた、日常なるものの断絶に向き合い、変化を被った生活にみずから慣れ親しんでいくまでの過程を記録することが意義あるものとされるにあたって、日記という表現ジャンルが用いられたということは、書かれたものが文学的なジャンルとして位置づけられることをあらかじめ回避した上で、だれに強制されたわけでもなく書くことを通じてみずからの認識を教育し、それを他者の視点に向けて開いていくことへの欲望が、すくなからず書き手の側には存在していたのではないかとおもう。

仕事がおわって、『灰と家』の在庫を渡しに山本の家に行く。スーパーで夕食の材料を買うとき、山本に小銭を出せないか聞くと、――きれいな小石しかない、といわれて、財布に入った乳白色のきれいな小石を見せられる。鍋を食べながら、100万回再生された猫の動画や山本がハマっているYouTuberの動画を観る。このあいだまでKAATで上演されていた地点の演劇『君の庭』についてのレビューで、題名が『俺の庭』と書かれている記事を山本が見つける。日記を書き終えて、後輩(添削担当)に送る。しばらくして後輩から返信が来る。

――日記の話については今後応答しようとおもいますが、とりあえず個人的には、冒頭がけっこう気になるな~、って感じかな。もうちょっとやんわりした表現というか、たとえば駅の階段で転んでケガをしたとか、そういうのでいいかもしれません!

東京・早稲田
鈴木一平