10月10日(土)

金木犀が好きだという人の
気が知れなかった
それを
本当には知らなかったから
しめっぽくすこし薫る
その程度のものだと思っていたし
「ノスタルジー」を口にしたくて
「キンモクセイ」と言っている
そんな程度に思っていたから
絶対言葉になんかするもんかと
かたくかたく思っていた
その単語すら
ノスタルジーなんて

先週
吉野の山を歩いている時
突然空気がやわらかくとけ
飴色にどこまでも透きとおっていって
かつての笑みの浅ましさを
しづかなしぐさでしずませると
あおざめた誤まりをやさしく撫ぜる
その香りがそっと知らせた
いのちのふかくに明記する
そうしたものが確かに在ると
言葉や名称におさめられず
息がただ詰まってしまう
そうした事が
ひとの肌の外がわに
やさしく
たくさん
ゆたかに在ると

泊まっていた宿の女将に聞くと
今年は桜も長く咲いたらしい
コロナの影響で4月17日以降
お客さんは一人も来なくなって
外からの目が絶えた吉野の山に
桜の花びらはいつもよりほてり
いつまでも景色をうるませたらしい

ひとの気配がひそまると
世界はありありと明瞭になる
我々の手痛い消耗こそが
世界をうつくしくもどしてしまう
わたしやあなたの吐く息は
いつかふたたび裸にもどる
その時
きっと多くのものたちが
しづけさの内がわの中に
一層押しやられてしまう
そうだとしたら
もしそうなんだとしたら

山から戻ると海はやっぱり荒れている
遊興のはしゃぐ姿は
風雨に冷えきった浜のどこにも
すっかり見えなくなっていて
どうやらもう
休暇は終わりらしかった

片瀬海岸・江の島
永方佑樹