8月30日(日)

うちには猫が一匹いて
柏市の里親探しNPOからもらってきたから
名前をカシワというのだけれど
巣篭もりのあいだに
もう一匹飼うはなしがでていた
カシワはすっかり外猫だが
次の子は今どきだし家猫として育てるという
その子は自由なカシワを見てどう思うのだろう
そんなかわいそうなことはできない
それで話は立ち消えていた
今日、次も外猫でいいのではないかと言ってみた
「そうね、どうしたってそうなるよね」
「ならば、反対する理由はお父さんにはないよ」
仔猫が来た日の愛らしい衝撃を今から想像する
カシワがとまどい、やがて愛し
連れ立って歩くさまを想像する
二本の長い尻尾が会話をしている
悪いことも想像してしまう
仔猫が車に轢かれて
カシワが嘆くすがた
聴いたこともないくらいするどく遠くにとどく声で
泣き続ける
抱いても石のように重い
想像を
たくさんしてきた
子供達のすばらしい活躍
おそろしい想像もたくさん
頭を離れない
脂汗をかく
でも、何もなかった
みんな元気に
普通に暮らしている
未来ばかり
考えてきたのか
仕事でも暮らしでも
お盆に墓参りをした
砂漠のように熱かった
墓がすきだと思った
未来は心をひっぱりまわして
たいしたことは何もないけれど
墓は確かにあったものだけの
動かぬ証拠だ
我が家の墓には
誰だかよくわからぬ人の骨壺が
ひとつ入っている
戦時中の混乱のせいだろう
それを放り出すわけにはいかない
何かの縁と思って
そのままになっている
確かに誰かが生きて死んだのだ
「空気の日記」をはじめて
詩についての考えが変わってきた
それまでは
まだ書かれたことのない表現や方法に
憧れがあった
毎日受けとる詩と
順番が回ってくるたびに書く詩を
考えるうちに
詩は感情の墓になればいいのではないかと
思うようになった
確かに生じた心が
そこに止まるとしたら
それでいいのではないか
「空気の墓地」というタイトルを思いついた
そうもいかないけれど
それで素直にほぐれる気持ちもあるのだ

東京・世田谷
松田朋春