8月16日(日)

八月十六日 角影(つのかげ)の裏の山畑にて
 敗戦の日、胸が一杯になってただむしゃくしゃ日本のやり方が
 悲しかったけれど、今日はそのほとばしるような激した感情が潮を
 引いたように静まりたまらなくやるせなく寂しい心で一杯になった。
 深々とした大地のふところにいだかれ遠くアルプスの前山をのぞみ
 ジージーという蝉の声をきく。久しく遠ざかっていたスケッチをしつつ
 (『いわさきちひろ 若き日の日記「草穂」』松本由理子編より)

奥付を見ると「二〇〇二年九月六日 第一刷発行」とあり、この本が刊行されたときに記念に開催されたはずの、練馬のいわさきちひろ美術館での企画展のとき、美術館の売店でこれを買ったのだったか、とにかくもう十八年も前の話で、そのころに買って、夢中で読んだ本で、一九四五年八月十六日から九月六日までを記した手帳が、全頁、原寸大で収録されている。殴り書きのような文字に、スケッチもたくさんある。二〇一五年の八月には、この手帳(を収録したこの本)をかたわらに置きながら、私は毎日詩篇を書き殴っていた、あと二冊、講談社文芸文庫の石原吉郎の詩文集と、岩波文庫の原民喜全詩集。あるとき、まんをじして、広島をおとずれたちひろだったが、原爆資料館の近くまで訪れたものの、こみあげるものがあまりにもあったためか、ついにそこに足を踏み入れることができなかったのだった。いま、この日記の文章をうっているパソコンから目をあげると、文庫本の山の中に、講談社文庫の『ちひろ・平和への願い』の背表紙が目に入り、ひっぱりだすと、表紙の桃色が裏表紙のそれにくらべて、だいぶ色あせている。奥付を見ると「1995年6月15日第1刷発行/2001年11月26日第5刷発行」とあり、『草穂』の本とおなじころに買ったのだったとおもう。ぱらぱらとめくると、さっき、わたしがうろ覚えで記した、ちひろの広島を巡るエピソードについて記されたくだりはすぐに見つかって、「ちひろは広島へ取材旅行に出かけますが、中心地の平和公園の近くに泊まったとき、「この床の下にも子どもたちの骨があるのよね」と言い、一睡もできませんでした。広島の町を歩きながら、一足ごとに死んでいった子どもたちのことを思い浮かべひどくかき乱され、予定されていた原爆資料館や原爆病院は訪れずに帰ってきてしまいます。これらのエピソードからは、ちひろの感受性の強さと、悲惨な光景に本能的に目を伏せてしまう性質がうかがえます。どこまでも酷い現実を凝視し、地獄絵を再現して反戦を訴えることがちひろにはできませんでした。」(講談社文庫『ちひろ・平和への願い』広松由希子による解説文より)。同じ文庫本から、目にとまったところをいくつか引いてみる。

 戦争の悲惨さというのは
 子どもたちの手記を読めば
 十分すぎるほどわかります。
 私の役割は
 どんなに可愛い子どもたちが
 その場におかれていたかを
 伝えることです。
      ちひろ・一九六七年

戦時期に青春を送り(「草穂」を記した1945年が26歳)、はやすぎる晩年(1974年に55歳で亡くなっている)をむかえたちひろは、ベトナム戦時下の子どもたちに思いを馳せながら、その終結を見ることなく亡くなっている。

 戦場にいかなくても戦火のなかで子どもたちが
 どうしているのか、どうなってしまうのかよく
 わかるのです。子どもは、そのあどけない瞳や
 くちびるやその心までが、世界じゅうみんなお
 んなじだからなんです。
             ちひろ・一九七三年

「「ベトナムの本を続けてやるのも、私はあせって、いましなければベトナムの人は、あの子どもたちはみんないなくなっちゃうんじゃないかと思って……」。ちひろは一九七二年にベトナムを舞台にした『母さんはおるす』(グェン・ティ作)を、また翌年、詩画集のような絵本『戦火のなかの子どもたち』を発表します。
 一九六四年から、一九七五年のアメリカ軍撤退まで続いたベトナム戦争では、百万人以上ものベトナムの人々が犠牲となりましたが、そのうちのおよそ半数が子どもだったといわれています。核兵器以外のあらゆる兵器が使用され、野山を汚染した枯葉剤などは、母親の体を通して、戦争を知らない胎児をも冒しました。
 日本にある米軍基地から、子どもたちの頭上に爆撃機が飛び立ってゆく現実に、ちひろは怒りを禁じえませんでした。体調が悪く、入院で制作が中断されることもありましたが、「私のできる唯一のやり方だから」と、はやる気持ちで筆をすすめていました。『戦火のなかの子どもたち』を描き上げて一年後、ベトナム戦争の終結を知ることなく、ちひろは他界しました。」(講談社文庫『ちひろ・平和への願い』広松由希子による解説文より)

あれは、ちょうどグレタ・ガーウィグの若草物語が公開されたのと同じくらいで、つづけて見て、そのコントラストに眩暈がしそうだったのを覚えている。Netflixで、スパイク・リー監督の新作『Da 5 Bloods』は、折りしも、Black Lives Matterの只中に公開されて熱狂をもって(アメリカで)迎えられた、5人の黒人の、元ベトナム戦争従軍兵が、当時は十代とかだったろうか、それから四十年以上を経て、みな初老から老齢といっていい年齢になっている、このメンバーの一人が、当時ベトナムに金塊を埋めておいたという、それをいま、まんをじして取戻しにいくのだという、それで当時ベトナムにて戦を共にした5人が再集結して、かつての戦場へと向かう、といった筋で、一見コミカルな感じで物語は始まるのだが、現地に到着すると、「闇の奥」に向かうにつれて(当然、コッポラ「地獄の黙示録」へのオマージュもある)、かつての現場のさまざまのトラウマの記憶がフラッシュバックし、彼らの心身は不調をきたし、変調しだし、じりじりと追い詰められていく。

とうとう一人が、四十年以上の長きにもわたって埋められつづけ誰かに踏まれるのを待ちつづけていた地雷を唐突に踏みつけ、下半身が木端微塵になる。のこされた半身の、傷口というにはあまりにも大きすぎる傷口から、だはだばと血があふれ流れる。それをカメラが真上からとらえていて、いま死にゆくひとの眼を、私たちは目のあたりにしてしまう。

いわさきちひろの描く絵のなかの子どもたちの、とりわけ初期のものがそうなのだけど、子どもたちの肌がとても茶色い、あるいは黒い。日焼けをしているのだろうか。そういえば、昔は夏に真っ黒に日焼けをしている子どもをよく見かけたが、いまはそんなに見かけない気がする。

しかしあまりにも日差しが強く、日中屋外にいることは危険といわれていて、NHKなどを見ていると、Lの字を右90度に倒した緊急の報せを告げる文字情報がずっと出つづけていて、熱中症への注意喚起と新型コロナウィルスの情報が交互に流れてくるのだった。それで外で遊ぶこともままならないので、つい1週間前にも行ったばかりなのにまた、最寄の駅から地下鉄で3駅で行けて、しかも駅直結で、避暑しつつ、買い物もの食事もできれば水族館ほか遊ぶスペースも充実している、スカイツリータウンに行くのだが、いま、観光客が激減しているため、おそらくはその収益減を補うための策なのだとおもう、都民はスカイツリーの展望台チケットがいまだけ半額とのことで、このスカイツリータウンには、2013年だかに開業して以来、これまで何十回も訪れているのだけど、ここへ来てはじめて、展望台へのぼってみることにしたのだ。

遠くのほうはかすんでいて、見えるものといえば、川と川とにはさまれて、ひたすらにビルや家々の屋根ばかりなのだが、75年前の今ごろにはここが一面焼け野原だったとおもうと、いやそう思う前からなのだが、眩暈がするのだった。

去年みたあるアニメ映画では、はんたいに、あまりにも長きにわたって雨が降り続き、いま見えている景色の半分ほどが水浸しになってしまったのだった。

サステイナブルがいま一つキーワードになっているが、どんなにサステインしたとて、やがて、いずれは人類は滅びてしまうのだった。

それは、それだけが確かなことなのだと、いいうるのかもしれなかった。

人類のはるか未来の子どもたちを守れない。

この圧倒的な無力感とどう対峙していけばよいのか。

ああ。死が、絶滅が、不可避であるわたしたちは、わたしは、なぜ、どうして生きるのか?

といった、中学生か高校生かがかんがえるようなことを、そのダブルスコアでもトリプルスコアでもある年齢でかんがえているわたしなどは真っ先に滅びるべきなのかもしれなかった。

そんなことを考えているうちにいよいよ眩暈がひどくなり、頭痛薬をサイダーで流し込みつつそうそうに地上へ下りて、押上駅で半蔵門線にとびのって、17時までの展示にまにあうように、江戸川橋へ向かったのだった。今週はあまり展示が見られなかった。

先週はわりに見られたのだった。

先週の日曜日にはスパイラルで桶田夫妻のコレクション展とエヴェリナ・スコヴロンスカの展示を見て、ユトレヒトまで炎天下、日傘を差しながら住宅街を10分くらい歩いていって長島有里枝の新しい写真をめくって(ミヤギさんが店番をしていらした)、GYREでヒストポリス展、新しくなった原宿駅からJRに乗って新宿、駅前のタワーレコードで予約しておいた7インチのレコードを買って、地下鉄で日比谷、新しくできたスペースCADAN有楽町でグループ展、日本橋三越で川内理香子の個展、一旦家に戻って自転車を20分くらいこいで無人島ギャラリーへ、臼井良平展。そういえば数か月前は、いっさいの展示が閉まっていたのだが、すっかり通常モードに戻っていて、ただギャラリーに入るときにマスクをつけたり、手を消毒したり、ときどき検温をされたり、事前予約が必要なところがあったりすることくらいが、異なっているのだった。

その、先週の日曜日にスパイラルで見た、エヴェリナ・スコヴロンスカの展示で、ステイトメントで、古代ギリシャの詩人サッポーについて書かれていたのだった。いま、わたしは、はじめギリシャの女性詩人と書いて、いやだな、とおもって、女性の文字を消して、詩人としたのだが、詩人にしろ、アーティストにしろ会社員にしろ職人にしろ作業員にしろなににしろ、属性に、というか、人類に、性別というものがあるというのはほんとうにうっとうしく、わずらわしく、神様(と、信仰というものの全くないわたしが、アイロニーの限りを込めていま記してみる、something)の設計ミスとしか、近年ますますおもえなくなっているのであった。

それはさておき。

そのはるか昔のギリシャの詩人である、サッポーの、約1万篇の詩篇で、完全なかたちで残っているのは2篇のみで、あとは欠落していたり消失していたりするとのことであった。エヴェリナさんは、その欠落ないし消失こそを創作の契機として、抽象化されたグラフィカルな身体の断片の描写と、サッポーの詩のことばの断片とを、響きあわせて、継ぎ合せて、新しい作品を生成されているのだった。

今週の、つまり今日のほうの日曜日に、スカイツリーから下りて向かった、江戸川橋WAITING ROOMでの飯山由貴さんの展示で、前回の彼女のWAITING ROOMでの展示は2014年で、まだWAITING ROOMが恵比寿にあったころで、そこで見たことを思い出したのだった。そのときの記憶だけをとりだすと、せいぜい去年かおととしのことのようにおもえるが、もう六年も前のことなのだった。およそ30分間の映像作品を見ながら、そのことを思い出しながら、映像の中の島やら神話やらの時間と自分自身の時間とかがごちゃまぜになって、時間が、時間というものが、時計の文字盤が、たとえば半分に切られた、半球のミニトマトででもあるかのように、あまりにも赤く、半球で、不確かなのであった。島に生息している、たくさんの猫が映像で流れて、猫の時間ということの不思議についても考えたのだった。

そんなことを考えながら夜、ひさしぶりにポテトサラダをつくったのだった。

いもの皮むきにかんして、わたしはにんじんの皮をむくのには皮むき器をつかうけれど、じゃがいもには皮むき器をつかったことがなかったのだけど、あたらしいことにも挑戦してみようとふとおもい、皮むき器をつかって皮をむいて、しかしやはりじゃがいもの凹凸の凹のところに皮がのこってしまう、でもそれはもうそのままでいいや、という境地に、いつしか達していたのだった。よくもわるくもいいかげんに、なってきたのだった。

鍋に皮をむいた、あるいはむききれていない、じゃがいもらを入れて、そこに水をひたひたにいれて、火にかける。塩と、しょうしょうの砂糖をつまんで入れる。つぎに、たまごを冷蔵庫から出して、水を入れたもうひとつの鍋に入れて火にかける。強火。前回ゆでたまごをつくったとき失敗した。今度は成功させたい。

きゅうりをほそい輪切りに刻む。ボウルに入れて塩をふりかけておく。しばらく放置する。

楕円形のハム3枚を、いまパックの上で段状になっているものを、まっすぐにそろえなおして、まず縦に二等分する。それから横にして、幅7mmほどの長方形に切っていく。

たまごのお湯がぐつぐつしだしたので、キッチンタイマーを8分でセットする。

(ここで、主菜のお魚を煮はじめるが、これはあくまで夕食の支度全般ではなく、ポテトサラダについての描写であるので、割愛する。その他の副菜やみそ汁についても。)

ミニトマトをパックから6個とりだし、へたをとって半分に切る。12個の半球のミニトマトが現れる。

ボウルに水を張って、そこに保冷剤を入れる。

キッチンタイマーが鳴る。

保冷剤を入れてよく冷やした水をはったボウルにたまごをぶっこむ。
流水にあてたまま、卵をむく。今回は、きもちいいほどきれいに剥ける!

卵切り器でたまごを刻み、さらに刻んだ卵を90度回転させてもう一度卵切り器で刻む。

じゃがいものほう、ゆで上がり、水をよく切って、おなじく水を切ったさっきの輪切りにしたきゅうりのボウルに放り込む。

じゃがいもをフォークの柄でつぶしていく。刻んでおいたハムと、ゆで卵を、入れる。

マヨネーズとこしょうを少々かけて、全体を木べらでかきまぜる。それぞれの素材感や食感がのこるように、かきまぜすぎないように、適度に、粗く。

円形のうつわに盛って、丘状に盛ったポテトサラダのまわりに時計のように、12の、半分に切られて半球のミニトマトを、文字盤の数字替わりのように並べる。

食事のあと、今日かばんに入れていた、3冊の本、いつものように、今日が誕生日か命日のどちらかである人物らにまつわる、今日は3冊ばかりの、本をとりだして、つづきをすこしずつ読む。

1冊目、木田元『反哲学入門』(新潮文庫)。大病をした木田さんが、病み上がり、自宅療養しているところを、お見舞いに編集者が幾度かたずねてくるうちに、哲学にくわしくないビギナーの読者に語りかけるように、インタビューの形式で、何回か収録したものを、連載としましょう、ということになったという、この本のなりたちについてのまえがきを読む。欧米の哲学について本当に理解することは日本ではそもそも不可能なのではという疑問を木田さんは呈されていて、それに対しての、タイトルにも掲げられている「反哲学」であるが、それがやわらかい、口述で解かれていく、という姿勢ないし形式じたいが、そもそも「反哲学」的なのだとおもう。

2冊目、大庭みな子『津田梅子』(小学館P+D BOOKS)。みな子が津田塾に入った年に、津田塾のある小平市の、鷹の台駅の、尞の近くで春、満開の桜の木の下で、さまざまに去来するもの思いにとらわれながら、満開の桜を眺めていると、塾の昔の卒業生らしい、妖精のような不思議な老女にふいに声をかけられる。彼女はみな子に、唐突に、「あなた、津田先生って、カエルの卵の研究をしていらしたのよ、アメリカの大学で」と声をかける。たしかに、実際、梅子はアメリカ留学時代に生物学を先攻し、カエルの卵に関する論文を一八九四年英国の「マイクロスコピカル・サイエンス」誌にモーガン教授と共同で発表、そのモーガン教授は一九三三年に、ノーベル賞を受賞したのだった。「彼は後年梅子について、その才能と人柄を称賛し、「あの優秀な頭脳は――教育者として立つために、生物学ときっぱり縁を切ったわけだ」と語った。」の一文で、この章はしめられる。あの妖精のような老女はなんだったのだろう?

3冊目。『文藝別冊 ビル・エヴァンス〈増補決定版〉没後40年』(河出書房新社)。1970年に、ジャズ批評家の児山紀芳氏が、ニューヨークで、エヴァンスの自宅で、ロングインタビューを収録することに成功する。クラブか何かのお店であったとき、初対面にもかかわらず、今度自宅でゆっくりインタビューさせて欲しいというオファーに対し、「部屋にはいろんものがあってゴチャゴチャしているから…」と一度は断られたものの、あとで思い直したのか、エヴァンスみずからわざわざ電話をかけてきてくれて、「この前のインタビューのことだけど、よかったらどうぞ」と快諾をしてくれ、実現したのだった。エヴァンスの部屋は、話とはちがってひじょうに整理されていて、古いピアノと、二匹のシャム猫がいる。メラニーとリタという。デビューにいたるまでのこと、スコット・ラファロの死、インタビュー当時試みはじめていたエレクトリック・ピアノのこと…など、私たちが知りたいことを、半世紀前の児山氏が、半世紀前のエヴァンスからするすると引出し、語らせてくれる。昼ごろの日差しはやわらかく、ほとんど人付き合いをしないというエヴァンスも、自宅のリビングで、コーヒーを片手に、遠い日本からの来客を相手に、リラックスしているように見える。エヴァンスの眼鏡の片方にはメラニーというシャム猫が、もう片方にはリタというシャム猫が映っている。頼んだわけでもないのに、私たちの愛してやまない、「ワルツ・フォー・デビー」を弾いてくれ、さらには、これまでライブで演奏したことがないという、「ピース・ピース」らしき曲の旋律をつま弾いてくれる。セカンド・アルバムに入っているこの曲は、「自分の求めているサウンドをつかんだ最初のものだった」と語ってくれる。かつて、禅や日本の墨彩画に傾倒したことなども語ってくれる。そういえば、エヴァンスも参加しているマイルス・デイヴィスの『カインド・オブ・ブルー』の、エヴァンスによるライナーノートにも、ジャズ演奏を墨彩画にたとえた箇所があったはず。かつて、わざわざ出版社へ行ったり、図書館に通ったりして、禅に関する書物を探したのだった。現在までに、というのはつまり1970年、いまから半世紀前までに、少なくとも、禅の書物を四冊発見して、その頃、墨彩画についての知識も得た。「そして、この単純な墨一色の絵の手法に、私は、ジャズの純粋な即興演奏の精神と相通じるものがあることを知ったのです。」ライブのときには、あらかじめセットリストを決めたりせず、その日の会場、観客の雰囲気に応じて曲目を、演奏しながら決めていく。演奏をはじめる際にも、ベーシストやドラマーと、「つぎはこの曲にしよう」などと、言葉で示しあわせたりしない。そんなことを語っている、エヴァンスの足元で、二匹のシャム猫がじゃれあっている。

東京・深川
カニエ・ナハ