6月5日(金)

二ヵ月ぶりに電車に乗り、三ヵ月ぶりに美容院へ行き、いつぶりか分からないくらいに、素敵なお店におずおずと入り、飲茶を食べた

街を歩く人の数はもうふつう
少しだけ怖いのは感染のことではない
人々は、もうしっかりと鎧のように属性を着て歩いている
学生服、ネクタイ、バックパック、ゆるいワンピース
私だって同じ
朝、なんとなく「社会」を意識した頭で服を選んだら、何を着たらいいのかちょっとわからなくなった
ついこの間まで、散歩で出会う人々は、みな「おうち服」を着ていた
少し離れて歩き、ぴったりくっついているのはいろんな年代のカップルばかり
あらためて生物としての番(つがい)を、遠くから川縁の道で確認した

でも今日、街では人々がひとりずつを背負ってひとりで歩き、属性をちゃんと着込んで、とりつくしまのない顔で歩いていく
そこに感じるほんの少しの威圧感と臆病さを、私はこれまで我慢していたのだろうか

電車に乗る人々、街を歩く人々はもう以前のよう
でもマスクだけが
呪いにかかった絵本のように
そこだけがまちがった絵のように
服装も属性も別々のみんなにつけられている
まちがった絵本の中で、ほんらいなら笑いを誘うレイアウトであったかのように

飲茶を食べたお店の内装は居心地が良く、気持ちが引き立つくらいに適度にきらびやかで、けれども、ここにも慣れない感じがつきまとう
お店だと頭ではわかっているのに、誰かの家の居間にいるような奇妙な気分
家以外のいったいどこでありうるだろうか、こんなに燦々と日が降り注ぎ、外の木々が「安心していいよ」とそよぎ、私が寛いでものを食べるのは

お店の入り口でも、注文を取る人も、とりわけ丁寧に、いやむしろうれしそうな顔で迎えてくれて、きっと人が怖いだろうに申し訳ない気持ちで不思議になる
けれど立場を変えて考えてみると、マスクをして次々とやってくる人々は、生き残った人々であり、お店を忘れずにまた来てくれた人たちに見えるのだろうと思った
私が迎える側なら、きっと次々にとことこやってくる人々は、一人一人であることを超えて、胸をきゅっと摘まれるような愛おしい「景色」に見えるだろう
それは鏡になって、生き残った自分と場所をしみじみと感じさせるのかもしれない

久しぶりに食べる「外の味」の複雑さに、細胞がこまかくなる
これは生姜とにんにくが入っている、そこまでは分かる、でもその後ろからやってくるこれは何?
辛かったのに、喉を通ってしばらくすると口の中が突然甘くなるのは何?
文化という言葉が、饅頭を噛む頭の後ろの方に、ゆらゆら浮かぶ
でもさらにその後から形容しがたい気持ちがわいてくる
それは後ろめたさのようで、もう少し白けたような、おやそんなものがいたのか、と思うような感情
家のごはんは自分が作っても夫が作っても、すみずみまで何でできているか食べながらわかる
それに比べてこの飲茶は文化を感じさせるのだけれど、これ、ときどきでいいなと思う
そして私はそんなふうに思う人だったかなとも訝しく
細胞はここまでこまかくならなくていいのかもしれない
もっと、餅米とお水でできているお餅のように呑気でいいのかもしれない

午後早い地下鉄はとても空いていて、いろんな電車の内装が新しく変わっていた
オリンピックにやってくる世界各国の人々を乗せようとはりきっていたのなら
事情を知らない車両も
新しいシートも床材も
がらんとしてまるで何か悪いことをしたので
当たるはずのよいことを、働いてよろこばせるはずだったことを罰として取り上げられたように
ぼおっと空虚なままで
不憫だ
説明してあげたい
あなたがたが悪いのではない

東京・表参道
柏木麻里