9月30日(水)

今朝

遅く
目覚めた

散歩に行けなかった

犬のモコを
抱いて

女を起こさないようそっと

ベッドからぬけだす
階段を降りる

モコを
居間の床に放すとモコは庭に続くサッシに駆け寄る

サッシを開けると
庭に出て

しゃがんで
おしっこする

しゃがんだままモコは上目使いにこちらを見上げている

モコを
抱いて

玄関ドアを開け
ポストから新聞を取りだす

朝刊の一面

「コロナ 世界死者100万人」 *
と見出し

インドネシアのジャカルタでは埋葬された遺体が6,000人を超え
墓地が足りないのだという

100万人の
死者たち

妻や夫や恋人

父母や
祖父母

兄弟姉妹
息子や娘や孫たち

友人たちが
いただろう

どのようにヒトはヒトと別れるのか

どのようにヒトとヒトは
突然

別れられるのか

青空の中に西の山が青緑に佇っていた

金木犀の
花の

黄色の

花の香りがした

*「朝日新聞」9月30日朝刊より引用しました

静岡・用宗
さとう三千魚



9月29日(火)

テーブルの牛乳瓶にゆっくりと光の線が滑り落ちゆく音がしている

長袖で半袖をたたむ仕舞いこむ詩型を替える準備をしている

比喩でなく手紙を2通書く3つ先の駅へと投函しにいく

湖が青い雲が白いカーテンが揺れる窓べで何もしなかった一日のようなそれは信号待ちでした

電話は電話でわたしはわたしで話しかけられるのを待っているのだ

クローゼットがものであふれてむこうへとわたしはとおりぬけられなくて

テーブルのコロナビールの空き瓶にコスモス挿してコスモス愛す

東京・深川
カニエ・ナハ



9月28日(月)

夏が落ち、
浮かんでくるのは、あのおじさん
コロナ猛暑の8月のある日、
閉じこもったからだが、むしょうに太陽に飢えて

川沿いを歩いた
長梅雨のあと、一滴の夕立さえ来なかった水面は、むしろ澄み、
何匹もボラが泳いでいた
イシガメが仕留めたカエルをつついていた

炎天下とは
焼けつく太陽だけでなく、
それが昇らす陽炎(かげろう)のことじゃないのか、
アスファルトが蒸し返すひかりの褶曲をひきずりながら
坂道をのぼった
このあたりは、かつては山のすそ野だったから

と、てっぺんから、駆け下りてくる自転車
海パン一丁のやせっぽちのおじさん
ギンギンの日焼け肌は、赤銅をこえて紫紺
蛍光オレンジとイエローのブリーフ
黒めがねの鼻すじは冴え、
すれ違いざま、ニヤッと笑ってくれた気がするが、
パンチパーマの伸び髪は
あたまの左右にゴム結び、
まるで、花粉まみれの触覚みたいに
まるで、熱帯の毒虫ライダーみたいに

がに股でペダルを踏むおじさん
裸の背なかが小さくなるのを、立ちすくんで見送りながら、
愉快になってきたのだった、ぶくぶくと
なぜに、祭りで、歯痛をよぶケバ色菓子をかじるのか
なぜに、タレべったりのイカ焼きでわざわざシャツを汚すのか
なぜに、けっきょく、にんげんは、薬より毒のほうが面白いのか

花火も盆踊りもなかった季節
たったひとりで、祭りだったおじさん、
出かけても出かけても
一度しか会えなかった、
        あなたは

陽炎であったか
灼熱の薄羽蜉蝣であったか

夏の底から、

神奈川・横浜
新井高子



9月27日(日)

「人はさびしくなるとなぜ水のちかくへ行くのでしょうか。
金魚セラピー」

これは水槽のことか それとも金魚鉢だったか

二十代のころ
会社帰りに通ったコピーライター養成講座で
ある商品にキャッチコピーをつける宿題が出た

わたしの提出したこの文章について
講師は よい、とも よくない、とも言わなかった
そのかわり
うん、ぼくもよく行きます、とだけ言った

日曜 雨あがりの公園
池のまわりには
散歩やジョギングをする人がたくさん

さびしいから 水のちかくへ行くのか
水のちかくへ行くと さびしくなるのか

おとなたちは 距離を保ったまま
それぞれの水面をみつめている

おさない子が あかい魚の影を追って
わたしのすぐそばまで駆けてきた
ふう、ふう、と息を吐く彼女と
おなじ水面をながめた

水のなかには 終わりのない青空
見えないけれど そこで遊び 眠る魚たち
見えるけれど ふれあえないままの人たち

彼女がふたたび駆けだしたとき
みじかい髪から
生まれたての火のかおりがした
水辺のさびしさをまだ知らない朝の

その子が駆けていった先には
今日も
だれも乗らないボートが
つながれている

東京・杉並
峯澤典子



9月26日(土)

いつ、どこにいる
日記を書こうとして
どこにいるとは
どういうことかと
考える

雨の中にいる、Yes
新幹線の中にいる、Yes
街と街のあいだにいる、Yes

どこかにいる時
どこにいられるのかと
考える

雨粒の中に、Yes
雨粒よりもずっと小さな
ウイルスの霧に包まれた星の上に、Maybe
星を見まもり続けてきた月の眼差しの中に、Yes
月の向こうの凍てつく沈黙の中に、Yes

そして星々のような細胞や
腸内フローラの
知り合うことのない花畑と共に、Yes

ここには小さく復活してくるものばかりだ
生きているから

車両の細かい振動に身を委ねながら
自分の小舟の舵をとる

鎧姿の若武者が落ちのびようと
沖合で待つ助舟に馬を向ける
しかし、汀から敵方の武者の声
「あれはいかに、よき大将軍とこそ見参らせて候へ。
まさなうも敵に後を見せ給ふものかな。返させ給へ、返させ給へ」
扇を上げて招かれて
ここを先途と馬を返す
なにもかもが乳色に見える
その同じ海に
私も舵をとる

考えてみれば
星は雲によって地上を諦めない
星と地上は千年続く雨の間も
信頼を失ったことがない

その星と地上のあいだを
いま
時速285kmで
東へ進む途上

新幹線車中にて
柏木麻里



9月25日(金)

朝の通勤
混んでる電車で
股を開いて座る紳士
シートにカバンを置く淑女
隣に座ると
シートから立つ女
どこにも掴まらず
電車が揺れる度によろける人々
繰り返し記号が延々と続く朝の巷に
新しい生活が息も絶え絶えに開かれていく

痛い詩人の今日も
条例に定められた協議を欠いた
行政照会に悩む
名のある建築士事務所に
一ヶ月かかる協議をするよう伝えなければならない

昼はまた彩度の低い光に
ゆっくりとくずおれていく
事務机のひんやりとした感触が頬をつたい
サカイトシノリの卓上カレンダーだけがそこに
あたたかい

役に立たないひとの
役に立たない生が
ゆっくりとくずおれてゆく
浮き出した胸骨のような
さざ波だつ日々の
昨日とちがう夕暮れ

帰宅する人たちの電車の中で
朝と同じ光景が
繰り返される

その人並みを逆に
かきわけて銀座の画廊へ向かう
柴田悦子画廊『言絵絵言Ⅲ』展
田野倉が参加する詩と美術のコラボ展
首を吊ってる姿がカワイイ結ちゃん
が、まとうそらしといろの詩が
当たり前のように美しい死者を生き生きと生かす

絵の中へ落ちていくように詩を書いた
恐怖のひととき
瓢箪で鯰を捕まえるように
言葉で絵は語り得るか

詩が絵を恐怖する
絵が詩を恐怖する
その前に他の恐怖は恐怖ではない

光の中の光
闇の中の闇

柴田悦子画廊を後にし
帰宅する人たちの電車の
朝と同じ光景のなかに
帰る

東京・小平
田野倉康一



9月24日(木)

先々週
しばらく会っていない年下の女友だちから
アイスクリームの詰め合わせが届いた
お中元を贈り合うような習慣はないからたぶん
オンライン授業や認知症の母のことで疲れたって詩を書いちゃったわたしを
気遣ってくれたんだなと思って
今度は泣かないようにしよう
溶けたらもったいないし
というかアイスクリームはわたしの好きな食べ物オールタイムベスト3に
必ず入るくらいだから泣くどころかテンション爆上がり
さっそく「稚内牛乳」のロゴ入りの蓋をあけて一口すくい
エクスクラメーションマーク連発のお礼メールを書く
だけど基礎疾患のある彼女は家からほとんど出ないで過ごしているはず
GO TOするわけないからこれは
北海道旅行のおすそわけなんかじゃない
すぐに届いた返信メールは
とても明るく
やっぱり外出は散歩と自家用車での遠出だけと書かれていて
ユーモアたっぷりの近況報告のなかに
この先どうしたら……みたいな言葉がまぎれていて
そうだよね
わたしたちは離れたまま
口内で「宗谷の塩」や「稚内産クマザサ」の冷たい甘味を旅し
秋冬へ向かっていく広々とした地平の上空を
脳内で飛ぶ
とてもとてもおいしい
わたしたち
連休はどこへも出かけずに終わった
この先いつ旅行の計画を立てる気持ちになれるかわからない
この先がどこへ向かっていくのかわからない
昨日の夜遅く
やっとチケットが取れて楽しみにしていた舞台が
初日あけてたった3日で
関係者にコロナ陽性者が確認されたため公演を中止すると発表があった
いま演劇を続けようとするひとたちが
どれほど念入りに検査し消毒し検査し消毒し
ソーシャルディスタンスに則った演出を工夫しているか
知っているから
つらいね
って
ただそう思う
どんなに注意したってかかるときはかかるんだって
誰もがうっすら思うようになって
この先がどこへ向かっていくのかわからない
わからないから
寒くなってもアイスクリームは必要
払い戻さなくちゃならなくなったチケットの向こうにも
この先はきっとある
脳内で飛ぶ
補給用のいのちのかけらを潜ませて
冷凍室はひっそり息づく

東京・神宮前
川口晴美



9月23日(水)

16度だよ、寒いっ。長袖がいる!
と騒ぐ家族の声で、朝を迎えた
奥武蔵・飯能です。

まえは。
「暑い」のあとには、「涼しい」のひと声で
ちょっと涼んでから、「寒い」冬をむかえ
そして。
「寒い」のあとは、「暖かい」のひと言ふた言で
しばらく暖まってから、「暑い」夏へとむかったように思うけど

近年はどうも。
「暑い」の文句のあとは、すぐ今朝のように「寒い」と
次の文句を言っているようで。段から段に飛び移るように
文句から文句を跳び移って、ご機嫌な時間が減ってきた気がする。

涼しいな、や。暖かいね、の。
やさしい合(あい)の言葉や季節がなくなって。気持ちや気候の段差がいっそう
きつくなったように感じる。

頻発する豪雨災害や、河川の氾濫等につづいて
これも世界的規模での深刻な気候変動のせいだろうか。

ウイズコロナ、のつぎは、ウイズ気候変動なのかねと、吐息もでる。
先は見えないし、元には戻れない――いったいどうなっちゃうんだ?
ぼくらをのせて、ひょうたん島はどこへいく、うううう、と
ときどき、難破船の乗組員のような、気分にもなる。

それでも日々、高くなる
空を見上げれば、すいすい元気に飛び交うアキアカネの群れ。おお、秋だ秋茜だ。
足元を見れば、道には色づいた落ち葉がチラホラ並びはじめている。
去年の秋と今年の秋の違うところは――
落ち葉のなかに、白いマスクが何枚か混ざっているところかな。

白いマスクが、これは夢ではないよと
現実を見よと、警告する。

マスク暮らしも、板について。人気のないところでの
マスク外すタイミングも心得た人々の、外し方もそれぞれ個性が出ていて
観察するとけっこう面白い。

顎の下にずらしてタバコ吸ってる、顎マスク。
片肌脱いだ遠山の金さんのように片方外した、片耳マスク。
ゴム紐が伸びきってないとああはできないだろう頭の上の、あみだマスク。
口だけ隠せばじゅうぶんだと思っているらしく堂々と、鼻出しマスク
人の気配を感知するとさっとポケットから現れる、忍びマスク。
マスク景色も、十人といろだ。

外出自粛令のおかげで、すっかりテレビっ子になってしまっている。
ニュースやワイドショーやドラマに映画とまあよくテレビを見る。
(推しの司会者や、コメンテーターもできた。今日の髪型や服まで気になる。)
きのうもテレビでおもしろい話を、仕入れた。

それはね。
ひとに何とかマスクをしてもらうための、
ところ変われば、セリフも変わる――
世界お国別、口説き文句の違いです。これは唸った。

アメリカ人にマスクをさせるには、
「ヒーローに、なれるよ。」(アメコミだ)
イギリス人には、「紳士は、してるよ。」(おとなだ)
ドイツ人は、「マスクは、ルールだよ。」(まじめだ)
イタリア人は、「モテるよ。」(さすがだ)

さて、日本人は?と固唾を飲んで待った。
さて、なんだとおもう?なんだとおもう?

なんだとおもい、そうかとおもった。
そうかとおもい、やっぱりとおもった。
そして、ちょっと悲しくなった。答えは

「みんな、してるよ。」(赤信号だ)

みんなしてるよ、で落ちる。にっぽんじん。
なるほど、と思いつつ、こわくなった。
「みんな、しんでるよ」に
かわったら……おだぶつだもの。

みんなのくに、にっぽんなんですね。
ばんざい。

みんなのくにから、ひとりのわたしを
とりもどせ、なんて。

そとではいえないことを、こころのなかで
ぶつぶつ、いいながら――

河川敷を散歩してると、白い落ちマスクのつぎには
草むらに赤い彼岸花を発見しました。

こちらには彼岸花の名所が結構多いのです。

ちなみに隣りまちには500万本の曼珠沙華(彼岸花)の開花で
有名な観光名所がありまして
9月、10月、つまり今頃の季節は毎年、どっと各地から老若男女が押し寄せて
真っ赤な絨毯と化した、満開の曼珠沙華の周りを
ぎっしりの人が埋め尽くしては右往左往。たくさん出店も出てたいそう賑わう
まちをあげての曼珠沙華まつりも、今年はコロナで中止。

そのために、咲く前の花の「刈り込み」をしたとのこと
花たちはだまって(あたり前だが)、されるがままに
つぎつぎおとなしく(あたり前だが)、刈り込まれていったのだろう。
・・・・・・・・・
いまかいまかと花咲くじゅんびもばっちりの蕾もふくらんでいただろうはずの
500万個の花の首が、いっせいに落ちたとは
花に罪はないものを――ざんねん、むねんだ。

春は藤の名所で藤の花房が、切り落とされ
バラ園ではバラの首がやはり、摘み取られ
そして秋には、曼珠沙華、おまえもか。
(みんな、してるから?)

原発事故では、動物たちが
コロナ禍では、植物たちが――結構犠牲になりますね。

早く、動物も植物も人間もともに、支え合って
(みんな、そう。とくいな、みんなで)
たのしく暮らせる日が、きてほしい。

マスクをずらして、深呼吸したら
きょう、金木犀が匂った――

いいにおい。

今年初の、秋の香りだ。
こんにちは、秋。

埼玉・飯能
宮尾節子



9月22日(火)

目が覚めて、LINEに温度感の高い仕事の話が来ているのに気がつく。午前中は「日記」の制作。昼頃に中華料理屋へ行って、麻婆豆腐とビール。追加で餃子とハイボールを注文する。奥に座っていたおばあさんが、炒飯を半分残したお皿を持ってレジに向かう。店員の人が、――いつもありがとうございます! といって、おばあさんを見送る。しばらくして、おばあさんが空になった皿を持って店に戻ってくる。
高校の同期からLINEが来て、多磨霊園に集まることになる。産休で休んでいるべつの一人にも声をかけたという。急いで家に戻って風呂に入る。元TOKIOの山口達也が、酒気帯び運転の疑いで逮捕される。待ち合わせにニ十分遅れることを連絡すると、――なんもない駅だよ、と返事が来る。新小金井駅に着くと、本当になにもない駅で、旅行に来たような気分になる。同期の記憶を頼りに道を歩くと、公園が見えてくる。
――(同期)虫いたら帰るからね。
――(作者)あいつ(もう一人)いつ来るの?
――返信来なかった。てかさ~、コンビニどこにもないじゃん!
――え、なんも持ってきてないの。
――マクドナルドでポテトのL買ってきた。しおしおになったやつ食べる。
しばらくして、多磨霊園ではなく野川公園であるのに気が付く。川に入ってなにかを採取している親子や、犬を連れて散歩している人が目立つ。遠くで、白い人間が四つん這いで歩いているとおもうほど巨大な犬を連れて歩いている人がいる。テントを張っている人も何人かいる。――これから雨ふるのにけっこう人いるね、とつぶやくと、同期が露骨に帰りたそうな顔をする。曇り空と青空が均等にまざったような空で、あまり見ない天気だとおもう。コンビニを探して歩きまわっているうちに、多磨霊園とは完全に逆方向の道となり、武蔵野の森公園をめざすことになる。
コンビニでお酒とつまみを買って、空を見上げながら歩く。武蔵野の森公園に着いて、調布飛行場を横目に見ながら芝生のある場所を目指す。遠くで飛行機が何台も並んでいる。蝉が弱々しく鳴いている。ミヤシタパークの屋上で見かけた看板がある。さっきよりも犬の数が格段に増えて、すれちがいざまに近寄られる。自転車に乗った子どもが、――気をつけてください、自転車に乗っています、といいながら去っていくのが、同期のツボに入る。芝生のある広場に着く。レジャーシートを広げて酒を飲む。遠くの木の近くに座っていた子ども二人が、交互にこちらの方に走ってきて戻っていく。途中でやたらと大きい人が走ってきたかとおもうと、おそらく二人の父親らしく、同期のツボに入る。フリスビーを飛ばしあう二人組がいて、片方のコントロールの良さに感動していると、もう片方がどんどん公園の奥へと離れていく。そのうち、数百メートル単位の距離でフリスビーを飛ばすようになり、同期のツボに入る。ゆっくりと暗くなってきて、あたりをコウモリが飛び交うようになったので、公園を出ることにする。同期がトイレに行っているあいだに、残ったハイボールを飲む。足もとでビニール袋がガサガサと音を立てている。生ゴミといっしょに閉じ込められたネズミが、袋を食いやぶって顔を出していた。袋を足で動かすと、ネズミはすこしだけ身をよじり、空を見つめたままガサガサと足を動かすだけで、逃げずにいる。帰るまでに雨がふらなくて、よかったとおもう。
「日記」を完成させて、後輩(添削担当)に送る。前回の「日記」を掲載した日から今日までのあいだで、カレーを食べた日に起きた出来事について書いたもの。後輩から、作中に登場する「みんなのミヤシタパーク2」(注:9月13日にミヤシタパーク前で行われたデモについての詩)内の引用部分に関する確認と、それとはべつの箇所で、プライバシー保護の観点からいくつかの指摘をもらう。数日にわたって書いたので、題名を「9月22日(火)へ」に変えて、松田さんに送る。酒を飲んだせいで眠くなり、一時間ほど寝る。しばらくして、松田さんから原稿の再考について返信が来る。
・「日記」は《昨日でも明日でもない、今日の空気の記録》を主題として参加を呼びかけた企画であり、それについてはこだわりたい
・数日にわたって書くのも感覚的に理解できるが、記述の時間の幅があると、他の担当者と重複する部分が出てくる
・(注:数日にわたって書いてしまうと?)全体がばらばらになっていく感じがあるので危うい
・今回の「日記」が「前回の日記の空気」をそのまま引き継いで書いていて、《今日の空気》とはちがう力点が置かれている
・そういうところがタイトルの表記にも出ているとおもう
まとめは作者の判断なので、誤解がある可能性は否定できないものの、以上の理由から原稿を再考してほしい、といわれる。他にも同様の依頼をして、再考を許諾してくれた人がいるらしい。素材を増やすために、できる限り毎日カレーを食べていたことを後悔する。
後輩(添削担当)にその旨を連絡すると、笑いながら電話がかかってくる。
――(後輩)あ~、そんなのあるんだね。よかったじゃないですか! 検閲を受けたって書けますよ。
――(作者)怒られるかな。
――だめだったら欠番になるだけなんじゃないですか? やりにくい詩人だとは、確実におもわれるでしょうね。
――え~、嫌なんだけど。
――やりやすい詩人になりたいなら書くのやめたら? だいたい、日付割り振られてるのにカレー食った日のこと何日も書いて、おかしいとおもわないのがおかしいとおもいます。
べつのところから、ひと月寝かせていた原稿の催促が来て、対応する。
――(後輩)今回の「日記」についての話は、日にちの問題もそうですけど、「《今日の空気》が入ってない」と暗にいわれてしまったところがいいですね。
――(作者)《今日の空気》って、もうすこし日にち的な幅があるとおもってたんだよね……。
――べつに日数の問題をいわれてるわけじゃなくない? 《今日の空気》が強く感じられていれば、もしかしたら問題なく載ったのかもしれない、とかね。ちょっと話題ズレますけど、情動が政治的判断と密接に関わってくる感じが、かなり興味深いとおもいました。日記っていう表現形式のあり方も含めた話で、テキストが真偽の区別を破棄した次元で成立し、人間の情動を駆動させる装置として用いられるという事態について考えさせられましたね。これは政治的状況に向けて語られるタイプの議論ですが、けっこう抒情詩の問題でもあるとおもうんですよ。表現形式としての日記から、詩の話にもつなげられる気がしています。
今年はたぶん類を観ないほどたくさんの日記が書かれた年です。それはコロナの流行がなかったら起きなかったことなので、一平さんが前に書いていたことですけど、コロナとの「共同制作」なんですよね。いろんな書き手による日記がいろんな媒体で発表されましたが、そこでは基本的に「その日に起きた出来事」が連続して書かれてあって、実際にかなり事実らしく読めるものが多い。でも、読み手はテキスト内部の情報に対する真偽の判断以上に、その「事実らしきもの」をとおして語られるものに注目してしまう。そのうちのひとつとして、「今・ここ」みたいな特定の場所と時間を伴った記述がもたらす、同期性を伴った抒情的な知覚が挙げられるとおもいます。つまり、《今日の空気》ですね。とはいえ、これは当たり前の話で、もともと日記は書き手自身のために書かれるものとしてあって、そこで日記は何ごとかを忘れないために、もしくは思い出すために書かれます。言い換えると、日記を書くことはそれを読んで思い出す過程、想起という行為が強く関わってくる。事実がそこに書かれてあることは必ずしも必要ではなくて、感情的な言葉だけがひたすら書かれていてもいい。そこには日付とのセットが重要な意味を持つのはいうまでもありませんが、想起が日記という表現形式の成立において不可欠な要素であるのなら、日記は記述から喚起される行為や感情の方をむしろ主題としている。
ところで、この日記から完全に事実らしさへの装いというか、真偽の区別の判断を働かせる要素が完全に取り除かれたとき、その表現はおそらく抒情詩に近いものなのではないかとおもっています。だからこそ、最初に話した「真偽の区別を破棄した次元で成立し、人間の情動を駆動させる装置」としてのテキスト、について考えたくなったわけです。日記をめぐる話から、なにかを引き出せる気がしましたね。なんというかここしばらくのあいだ、みんなで思いおもいに詩を書いて興奮してるんだな~って。
――(作者)後半に関していうと、オレが前に飲み会で話したことと重なってる気もするな~。今はまだ、うまく断言できないとおもう。
――(和合亮一)いいのか 無かったことにされちまうぞ※
――(作者)正直、デモの詩は載せたかったな……。
――(後輩)どこかべつのところに載せたらいいんじゃないですか?
「日記」用に書いたテキストを削除して、深夜まで今日の出来事を書き起こしながら、ZOOMの打ち合わせに参加する。半分酔っぱらっていたので、余計な発言をしないようにミュートをしながら議論を聞く。後半で発言できそうな話題が出てきたので発言すると、そもそも参加していたことに対しておどろかれる。
※書き直し前の「日記」で引用していた和合亮一(@wago2828)のツイート。
(https://twitter.com/wago2828/status/1306948885495963649、2020年9月22日閲覧)

東京・高田馬場
鈴木一平



9月21日(月)

毎年恒例の
若いアーティストたちが作品を発表するイベントをみた
密にならないように
出展作家を絞っていて
その分クオリティも高い
今年変わったのは
見ている自分で
理屈の作品やデジタルの作品には全然反応できない
写真には
被写体の実在を感じる
知らない素材には
作家という他者を介した
実在との出会いを感じる

写真のなかの
小さな人
その
遠さに
こころが矢のように向かっていく

福島の原発がだめになって
毎日線量を見守った
だがいつのまにか
忘れた

秋の連休は大勢のにぎわい
そして次の巣篭もりの入り口
すべてを忘れてきた我々に
それを許さない
みえないなにか

東京・表参道
松田朋春