11月20日(金)

靴下もタオルも 
くちびるも すぐに乾く
豆を煮つめる小鍋に
なけなしの湯気が立ちのぼって
生温かい日和をもてあます

最多記録の更新は予見のとおりで
第2波とは桁ちがいの棒グラフも
とっくに約束されていたこと
皮膚の手ざわりは世間の不穏とずれたまま

「イベント」のたび増幅する
可聴帯域を外れた地鳴りのようなもの
それをたやすく左右できることばやBGM
同じ振動数を拾われて
光の訴えに耳をふさいで
違うふるまいを選ばずに
波形のくりかえしに流されて

ワクチンが登場したあとは
長いトンネルを抜けたみたいな
お祭り騒ぎが待つのだろう

父母に学んで身じまいを考える
子どもを持てなかったわたしたちは
上下左右をさばく知恵のあるうちに
おしまいの居場所を決めること
残して行く全部を
(かわいい)トカゲたちに割振りすること

ああオレたちもこんなこと 話し合う日が来るなんてさ
わたしけっこう楽しいけど
そうか と言って間をおいて 
そうだよね と顔を上げて夫は笑った

みんないつかいなくなるという平等
からだの声とふくよかに交信しながら
連続性の眩しさを呼吸として
近づく死にやわらかく向かい合う
その日々を未来と呼ぶことを
わたしはためらわない
                      

東京・目黒
覚 和歌子



11月19日(木)

夜明けの訪れが遅くなって
目を覚ましてもまだ、夜が離れないままでいる
青暗い空に、山の輪郭だけが灰色に滲むのを
布団から見つめるのが好きだ

乾いた秋風と朝夕の冷たさが厳しくなるほど
あか、だいだい、きいろ、ちゃいろの
山の装いが増して

今年は
ひときわ 紅葉の色づきがよく
ひときわ 観光客が訪れている

もう、こんなにも欲しい
外を
色を

「木は 人が好きだよ」
と言われたことを思い出す
きっと木にあたためられている

ひらひらの
ぱらぱらの
落葉を
せいいっぱいに集めて
ごろごろに寝転んで
かさかさに埋もれたら
もう笑ってしまうしかないね
だって、秋がちらばっている

ねえ
触れ合わない唇で味わえるものは
もう全部、味わい尽くしたんじゃないかな

ねえ
まだあるのかな

大分・耶馬溪
藤倉めぐみ



11月18日(水)

この時期にしてはめずらしく気温が上昇し、
わたしたちは
うっすらと汗ばんでいた

ニュースが
気温のほかに様々な数字を伝えている
こうなることは
前からなんとなく分かっていたが
実は少しも分かっていなかったのだ

カミュが『ペスト』に
「なるほど、不幸のなかには抽象と非現実の一面がある。しかし、その抽象がこっちを殺しにかかって来たら、抽象だって相手にしなければならならぬのだ。」
と書いたことを
ぼんやりと思い出しながら
歩いて帰ると

繊い月も
ぼんやりと
雲の間に出ていた

ランベールの「あなたは抽象の世界で暮らしているんです」という言葉と
リウーの
「人間は観念じゃないですよ、ランベール君」
との言葉
彼らの議論が
夜の空気に
ささやかに響くのである

※引用は全て アルベール・カミュ 『ペスト』 宮崎嶺雄訳 新潮社 2013年 による。

福岡・博多
石松佳



11月17日(火)

東京オリンピック・パラリンピックの公式キャラクター――白地に紺色かピンクの市松模様の、丸顔に角の生えた二人組――が結構好きだ。夏の間、彼らが描かれたスポンサー企業の広告を街中でよく目にした。期待された効果を果たせないまま自らの役割をかたくなにまっとうする彼らの姿に哀愁を感じたものだった。パッケージに彼らがプリントされたお菓子を何度か買った。

TOKYO2020のLINEから通知が来ている。観戦チケットの払い戻しについての案内だ。キャラクターのスタンプが欲しくて友だち追加をしたのだった。この半年は彼らのスタンプをよく使ったが、先月スマホがクラッシュして買い替えたため、スタンプは消失していた。もう一度ダウンロードしようとあれこれ試すが、見つからない。いまはもう提供していないのかもしれない。

来日中のIOC会長が各関係者と会談を行っているとの報道。リモートでやれよという気持ちと、そうはいっても来ることに意義があるのだろうという気持ちが半々。行うという意思表明はいつであれ覆りうるが、行わないと決めたことの再考はできない。

チケットの払い戻し申請の受付期限は11月30日午前11時59分まで。チケットを一枚も所持していない私には関係がない。あなたはどうしますか? いくつもの抽選に参加し、やっとの思いで手に入れた、そのチケットを、あなたなら、どうしますか?

東京・調布
山田亮太



11月16日(月)

朝6時の日の出とともに呼び出されて
山をあがっていく
なんでこんなところに山があるのか
まったくわからない都市の中の微高地
いすをもって上がっていってほしい
いすをもって。と魔女はいう
仕方がないから右手にいすをぶらさげて
芝生のようなヒースのような草地の丘をあがっていく

あたりにはまだ朝露がおりて
つつじの中からあたしの顔が笑っている
等高線を。等高線を描きなよ、と魔女はいう
草地の表面をたどり
同じ高度につないだいびつな曲線
おやおやそこにはすでに石灰のラインマーカーまで用意されて
草地の表面の微妙な谷の数々、
草地の表面の微妙な尾根線、それらを
知らず知らずのうち
ぼくの白線は描き出していく

詩とは等高線のようなもの、
なんてちょっと言ってみようか
きっかり標高50 mの等高線が
武蔵野の河川の水源をせっせとかすめていくように
詩は、
精神の茂みにかくされた
ほのかな水のゆらめき、
それを一つずつ
うるませていくトレイルかもしれない
 またあるいは――
         等 高 線が
   「山」を
       象 徴
               する ように
                  詩 は
 「世  界」 を、
       象  徴  
            す る
のさ、言ってしまえば!
もしも、もしも、
もしそこに確かに存在している、ありふれたそのものが
実はもうひとつ立体的に次元の高いなにか、
そのなにかの等高面として見えてきてしまうのだったら、どうする?
喩法のセリーを微分積分しながら
斜面をのぼりおりする、その瞬間
かすかに苦く
笑いは走る

けもののような蒼い闇
草地はどこまでも続き
ぼくはもういつのまにか、
昏い孤独のどまんなかに立っている

たぎりたつものが
あふれていく

草地にあけられたいくつもの穴。
ぼくはことばの衣服をぬぎすてた!
ぬいでしまった!

(受付は。
(朝露にぬれてしまいますよ、

おぬぎなさい、
お急ぎなさい、

三鷹・牟礼
田中庸介



11月15日(日)

首里城の敷地に沿う歩道を
城内へと続く道で曲がり
日曜で観光客の珍しく多い城内の公園のわきを
守礼の門 園比屋武御嶽石門
歓会門を横目に見ながら久慶門へとゆるやかに下る
円鑑池の周縁の坂を県立芸術大学へと
当蔵の交差点で左に折れて
龍潭のほとりの道を
バリケンが水面に波紋を広げ
薄の穂が白く咲いて揺れ
白鷺が細い脚を伸ばして休む姿を
立ち止まっては眺め見送り
城西小学校の校門下を抜けると
首里中高の制服がショーウィンドウに並ぶイケハタの角で左折する
天ぷらの安さんの前を過ぎ
長らく城前ストアのあった丁字路で信号を渡った
玉陵 首里高校 琉染 ポケットマーニーを通り過ぎていく
観音堂までの下り坂を途中で細い路地に入り
手を合わせると
六年前まで住んでいた部屋を懐かしく見やって
赤マル荘通りを歩く
石畳に出れば下りていき
村やーを過ぎ越した
大通りとぶつかったら左へ坂を上り
金城ダムに着くと
水門を渡って貯水池まで階段で下り
池の周りを一周する間
魚にえさをあげる父子を見かけ
また水門のふもとから階段を上った
元来た道を戻り
石畳をえんえん上っていく
マスクをしていると息苦しくなり
赤マル荘通りまで上り切ったところで
浄水器の売店わきで外して大きく息を吸い込み
坂を上っていくとき
すれ違う人と少しの距離を開けつつ
芭蕉を育てる県立芸大の畑や
金城キャンパスの前を過ぎていった

事実を記すことは難しいだろうか
記した事実に基づいて数を数えることは
数えた数を記録し統計を取ることは
取った統計に従って予測を立てることは
立てた予測に照らして対策を講じることは
難しいだろうか

この冬の危機は予測されていた
予測されていた危機をできうるかぎり未然に防ぎ
防ぎきれなかった場合に備えておくことは
難しかったのだろうか

おそらく
難し過ぎたのだろう
利権を経ずに
箸を上げ下げすることが
人の命を危険にさらすよりよほど
難しいことなのだろう

ゴールデンウィーク

次は年末年始の休みまで
止めるつもりがないとしたら
予測は結果となってさらに押し寄せてくるだろう

事実を認めることは
なぜそれほどまでに難しいのだろう
不都合だというだけで

沖縄・那覇
白井明大



11月14日(土)

日が昇るまえに
あかりを灯したら
加湿器がおしゃべりしている

幾度目かの雪
まだ根雪にはならずに
染まった植物を生きたまま殺す

一年のおしまいに
掃除はしたくないので
いまのうちに、とわたしが急ぐ

たった数年で ずいぶん
本も家具も食器も記憶も不要で
袋にほうりこみつつ

この身体って必要かな

空焚きした鍋の
においが充満して
冷気と熱気が混じりあい

どうか不要不急の外出は避けてください

立ち入り禁止の先へは行かず
わたしたち、文通をしている
明日は白井さんの日記の日だ。

北海道・札幌
三角みづ紀



11月13日(金)

気圧配置は
西高東低なのだ

今朝
空に

雲ひとつなかった

唇が
乾く

モコを連れて
浜辺に行くと

風があり

海は
光ってた

「新規感染者 最多1653人」と朝刊に見出しが立っていた *

第三波だろうか

どうなのか
波も三つくらいは数えられるが

四つとか
五つとか

数えられないかもしれない

10月の
終わりに

兄は
逝った

心を預ける

人も
場所も

もう僅かだ

冬になると
ここから

青空に白い不二が見える

*「朝日新聞」11月13日朝刊より引用しました

静岡・用宗
さとう三千魚



11月12日(木)

午前、座談会の文字起こしをチェック、多少の加筆・修正。詩集本文の最終チェック。午後、さいたま。ハンドアウトの印刷、補充。併せて昨日に引き続きハンドアウトに加筆、あわせて署名。60枚程。夜、詩集の装画来る。1~7まであり直感で選んでください、と。まず1、4、6、7に絞り、おすすめは?と聞くと、1か4という。5分考えて、4に決める。ついでに背、裏表紙、表2、3の色を相談、勧められたもので決定。表紙データ作成。明朝、一式いま一度見直すべし。明日は午前詩集最終チェック→入稿、戻って来次第座談会ゲラチェック。昼過ぎからさいたまアテンド2件。早く寝るべし。日記のこと思い出す。時間がない。なるべく簡潔に記すべし。

*

ある展覧会を訪れて、途中でこの展覧会はこれまでにすでに2度、訪れた展覧会であることに気づく。つまり、これで3度目。そのことを完全に忘れているひとに、ひっしに思い出させようとしているうち、やがてふっと思い出し、安堵する気持ちもあるものの、それよりも記憶というか忘却ということの、恐ろしさばかりが後味として残った。

それが朝の4時で、ほんとうは起きあがって、日付でいうと一昨日返ってきて今日の午前いっぱいで返さなければならない、文字起こしされた座談会のチェックをしなくてはならないのだけど(それは3段組みで20頁にも及ぶのでなかなかに骨が折れそうなのだ)、疲れ過ぎていて起きあがることができない。つぎに気づいたときには6時過ぎで、今度は夢は見なかった。

出品している、さいたまと奈良の展覧会がまもなく同時に終わってしまう、そのことが未明のああいった夢を見させたのだとおもう。展示している期間はいつもどこか落ち着かなく、それはそもそも生きていることそのものがそうであるのかもしれなかった。感染者数がまた増えつつある。このまま無事に会期末を迎えることができるとよいのだけど。

*

作業をしながらジョン・レノンの、今出てる「レコード・コレクターズ」最新号のレノン特集のベストソングス80をプレイリストにしたものを再生していたら、突然ジョンが日本語で歌いはじめて、「あいすません」以外でそんなのあったっけ?と吃驚したのだが、確かに「あー場は川、干せ干せ。」とくりかえし歌っている。「#9 Dream」にて。

あー場は川、干せ干せ。
あー場は川、干せ干せ。
あー場は川、干せ干せ。

あー場は川、干せ干せ。
あー場は川、干せ干せ。
あー場は川、干せ干せ。

あー場は川、干せ干せ。
あー場は川、干せ干せ。
あー場は川、干せ干せ。

あるいは場は馬なのかもしれない。いずれにせよ、ジョンってやはり凄い詩人だな、と感心する。

東京・深川
カニエ・ナハ



11月11日(水)

足の爪は、はやい
手のほうは、おんなじ
かみの毛はもともとスケベ根性だったし、
垢のぽろぽろは、ちと遅くなった気がする

わたしばかりじゃないだろう、
からだに向きあうじかんが増えたのは

なぜに足の爪ばかりがむやみか、
夫にたずねると
運動するとのびるのだと、
ならば、コロナ禍なわたしは
足をやたらと動かし、
(心当たりはなく、
 眠りながら走っていたとしか思えないが)
あたまと手はどうにかで、
汗のかき方がなってない、ということか

ぶぶん、ぶぶん、
じつは、違うじかんのなかを生きてるのか、
とも思う
わかいのは脚力、
頭脳や指さきは月並みで、
みるみる肌が老けてるのかも
(それは、こわいね)
でも、時間論からすれば逆じゃない?
(それも、こわいよ)

八本足のそれぞれが、
べつべつの砂時計をにぎっている蛸、
あんがい、
生きてるからだの真実ではありませんか

もっぱら肺を狙うウィルスも
爪をのばし、
駆けってて

神奈川・横浜
新井高子