3月31日(水)

桜の開花が10日ほど早まり
いつもならそろそろ盛りの桜が
もう名残の葉桜になります

季節外れ、と思い描いた季節は
ますます手が届かなくなりました

日々が緊迫し弛緩し
思惑と軽薄に揺さぶられ
魂も身体もこわばらせたこと
すべてに
よく生きたのだと
口笛を吹きます

机の上にある盆口説きの歌詞を眺めて

今夜良い晩 嵐も吹かず ウ
梅の小枝は なんとおりよかろ
月夜月夜に わしゅつれだして
今は捨てるか 闇の夜に

と見つけました

待って
月が
見えますか?
すごい

と明け方のような月あかりを
それだけに出来なかったことも
春だったと、ことさらに頷いて

せりあがる地面に
よろけることそのものが
わたしたちで
生きることで
今なのだから
全てのミステイクの中で
わたしも過ちを抱えているのだなと
小唄を唄うのです

名前がやってきて
名前が過ぎて
また新しい名前が訪れて
同じ石でつまづくのが
人ではありますが

つまづいた先の空中ブランコに乗ることも
転げ落ちた先のガレキの屑をとりはらえるのも
そのまま人なので、ね

※大分県中津市耶馬渓町の盆口説きから引用

大分・耶馬溪
藤倉めぐみ



3月30日(火)

夕方
髪を切って
その帰りに冷泉公園に立ち寄った
たしか1年前にも見た
桜が咲いていた
満開を数日過ぎているから
花びらは少し散り始めており
幹はその輪郭をあらわにしつつある

そういえばずっと前に観た
〈時〉がテーマのSF映画で
登場人物が「我々が経験しているのはtempoだ」
と言っていて、はっとした
tempoは、「ある速さ、リズム、調子」を示す音楽に関する用語である
ただ漫然と過ぎる抽象的な「時間」とは異なり、
濃淡があり、緩急があり、
それゆえ私たちに経験として、または記憶として残るものである

眼前の光景に対して
そして
これまでやこれからの
あらゆる経験に対して
あらためてわななく感情※とは
いったいどういうものになるだろう

公園で
マスクを外し
花びらに
夜の空気に
わたしは呼吸を
重ね合わせて

※犬塚堯『河畔の書』収録作品「石油」より引用

福岡・博多
石松佳



3月29日(月)

わずかな別れを対面にうごめいて春には迷いがなく再びの覆われた道にすばらしく長い一日を生きている道具として衛生観念を盾に遠隔で縮尺が混乱してどこにいるかはどうでもいいとしてもどこかにはいなくてはならない気が遠くなるほど長い一日の終わり視察のために外出する陶器をあつかう店のメインの経路は通信販売で要望があるときにのみ開くテーブルを囲んで話す向かいの喫煙所に見覚えのある人が立っている構えたばかりのアトリエがすぐ近くにありこれから稽古だという自家用車とタクシーに乗り移動するジャージャー麺と餃子を食べる肩を並べていま新しい場所を持ち維持するのはとても手間のかかる行為でどこにいるかの意味が変わってしまった世界でもどこかにはいなくてはならない。

東京・調布
山田亮太



3月28日(日)

Zoomで始まってZoomで終わった今年度の最後に
ユネスコ詩の日の国際朗読会の司会を頼まれてしまった
70言語で300人が読むという、その一角
12名の詩人、
日本、韓国、ベトナム、カンボジア、タイ、
この2時間にぼくのZoomに登場する彼ら

セッションは柏木麻里さんの蝶の詩から穏やかにはじまり
新井高子さんの上州弁、上田假奈代さんの大阪弁、
さらさらと英語で進行する
「方言」を主題とした朗読会は好調に進む
青い壁の新しい書斎から
Zoomでの司会は続く

めちゃくちゃ説得力を持った韓国の若手詩人
クールに落ち着いて人生の苦楽を歌う
東南アジアに入ると
のどかな旋律に載せた唄がはじまり
しかし
どの詩人の経歴にも
苛烈な政治の歴史がにじむ

メコン河の流れのように
あまりにも辛い人生の物語が押し流されますように
詩人たちの涙、息遣い、真実、
それらが遠い国から
ひとつの画面をよぎっていく

世界って何なんだろうね
朗読会がはけて
遠い遠い地域のセッションをザッピングしよう

このフィンランドの女性詩人すてきですねー遠い国でも太陽神経叢に夢中になっている人がいるんですね
イタリアーノベラポエジアーセラポエティカーといってます
もめんとーのすたるじかー
パゾリーニの話がほんとにうれしそう。
イタリアのおばさまの声をきいて幸せになりました

アフリカの
静かな書斎

巨大な
帝国の
知識人たりえた詩人の
諦念のこもった笑み

それを今、この書斎に友人のタカさんを迎え
ビデオをYouTubeで振り返っている
コロナがもたらした
空気の日記、
Zoomの国際朗読会、
講義のグッドプラクティスに対して大学から賞状が届いた、

詩の激しい静けさ、

子どもたち、

ことばの光は
いつ射すのだろう、と

静々と、
静々と、

東京・久我山
田中庸介



3月27日(土)

砂丘きてみた

ひさしぶりに海みたな

自転車に乗るのもひさしぶりなのに
ひと山越えたり
道まちがえて戻ったり

ここに来てみたかった
来たことあった
初めて詩集を出した年に
詩学社と幹くん主催の

夜の鳥取砂丘の中心で詩を叫ぶ

、てイベントが
たしかにここであった
いろんな詩人がいて
明け方まで宿でのんだっけ

ここへ来たかった
見失いそうだったから
詩が
ぼくを
どこからどこまで運んできてくれたのか
確かめたい
気がして来てみた

いったい
ここで何がわかるのか
波の音がする
風の音
時々ひばりの鳴き声

何かに会って
何かを見つけて
わかるというよりか

ああ おんなじ場所にいまいるんだ
、て思えること
そこから静かに湧いてくるあたたかみがあるのを
いま感じている

詩集を出したかった気持ち
たくさんの詩人と会い
やさしい心根の人々の輪に入れた幸運
じぶんがどんな道の上に立ったかということ

大事なものは
もう持っていたよ
最初からあったんだ
なくしてもいない

そりゃあ いい詩が書けたり
誰かに読まれりゃ うれしいけども

そりゃあ あったさ あったよ 色んなこと
傷つくことだって
消耗することだって
ちっぽけな自尊心がぐらつくことなんていっつもだし

ひばりが鳴きながら降りてきた
砂地に生えた短い草の間をあるいてる

あんなでいいんだ
歌いたいから歌って
さっぷうけいな場所をあるいてる
そんでいい

帰りも
坂道を自転車乗って帰んなくちゃいけない
まだ昼過ぎだから
がんばって漕いでくか

おなかすいたな
うまいラーメン屋でも
寄って帰ろう

鳥取・砂丘
白井明大



3月26日(金)

水が雨のように降って、
まるで春みたいだと思った。

ざんざんと窓を濡らしていく
いつも置き去りなのだ

明日はこなくて
昨日も手をはなれて

わたしたちには今日しかないと
知るとき、

世界は変わらず
そしらぬ顔をしている

これは春じゃない
ほんとうはもっと厳しい

自室の椅子に座ったまま
さいごの読書会へ向かう

ヤドリギが輪郭を明確にして
はげしい雨は止んで

緑が増えはじめ
狂わずに壊れていく日々を
きみが撫でつづけている

※北海道は、新型コロナウイルスの感染が前日より多い69人であることを発表した。死亡報告は2人。明日27日から、札幌市では不要不急の外出自粛要請が再開される。

北海道・札幌
三角みづ紀



3月25日(木)

帰ると
待っていた

ソファーの
上の

クリーム色の
毛布の上から見上げた

モコ
待ってた

待っていてくれた
おしっこをさせた

19時の
TVニュースで

非常事態宣言解除後に増加しているといった

オリンピックの聖火ランナーが
福島から出発したという

なでしこたち走ってた
なでしこたち福島で笑ってた

逃げるほかなかった
逃げるほかなかった

この一年
毎日

吸ってた
吐いてた

この
空気

一月と二月は途方に暮れた

吸ってた
吐いてた

空気を吸っていた
空気を吐いていた

わたし呼気だけになる
わたしたち呼気だけになる

茄子が光ってた
イイイイイイイ

静岡・用宗
さとう三千魚



3月24日(水)

今週金曜と日曜に横浜で、展覧会会場エントランス横の駐車スペースにてワーク・イン・プログレス(進行中の作品)を制作・発表する、そのタイトルを「オープンマイク パーキングロット」と「トラベローグ パーキングロット」に定める。パーキングロットには「(1)駐車場のこと。」の他に、「(2)議論において、今すぐには話し合うべきではないと判断される話題などを一旦保留しておくために、机やホワイトボードの隅などに設けられるスペースを意味する語。議論の混乱や、無駄な議論を避ける効果があると言われる。テーマから外れた話題を隔離するために用いられるが、議論が進むとパーキングロットに保留しておいた話題が役に立つ場合もあるとされる。」(「実用日本語表現辞典」より)の意味があり、展示の(実空間の)余白としての「駐車場」にて、何か展開(あるいは保留)できないか。

土曜には、1月から延期になった西脇順三郎のイベントが控えていて、その準備もあわせて進めないといけない。西脇が日本語での第1詩集『Ambarvalia』を発表したのが39歳で、次の『旅人かへらず』は戦争を挟んで52歳。これら初期の詩集に比べるとあまり読まれていない感のある、西脇70代80代の詩集『禮記』『壌歌』『鹿門』『人類』あたりこそが最高峰なのではとわたしは感じていて、そのあたりについて話そうとおもっている。

家の近くの、いま満開の桜の木の横の駐車場の隅に、ナズナ、タンポポ、ホトケノザといった雑草のちいさな花たちが、こぼれそうに咲いている。うれしい。

東京・冬木
カニエ・ナハ



3月23日(火)

床下浸水になってどのくらいたつのだろう
引き潮がきたと思う日もあったが、
いつしか沼地になっていた
乾くことはもうない

ころげ落ちるかと案じたわたしだが、
なし崩しのほうもやって来て、
どこが波打ち際か
わかりますか

「波」と呼んだっけ
「いまが瀬戸際」とも言ったっけ

比喩とは、
そうだと思う喩えとは
本質だから
自然現象だったのさ、
ウィルスも

      ある日、0.1µmが生まれた
     極小の苔といってもよかった
    繁茂し、
   変異し、
  たちまち、
 地球規模の湿原が生まれていました

     地べたに
    大気に
   呼吸に
  肌に
 爪の垢に

その苔が
その根っこが
馴染むまで
しっかりと根付くまで
わたしたちはいのちがけだが、

特別なことではないのですよ
波だった
波打ち際だった
花だった
花の湿原だった
なんども見てきた景色だった

窓辺のいちりんも
ふるえ、
いのちがけで咲いていて

神奈川・横浜
新井高子



3月22日(月)

昨日 二度目の緊急事態宣言が解除され
近くの公園の
さくらもひらきはじめた

去年とおなじように
今年も

だれかと集まることはなく
満開の花のしたに
ひとりで
ほんのすこし立ちどまるのだろう

二十数年まえの三月のおわりに
うまれてはじめて
東京で
ひとりで
暮らしはじめるまえに
家の近くの
さくらを見あげた

そのとき
手のひらのなかに
花びらがいちまい 落ちてきた

さよなら
げんきでね

聞こえなかったことばだけが
いつまでも
耳にのこるから

わたしは
今年も
通りすぎるだろう

ひとりきりの
だれかの
手のひらへと
無数のことばが
降りはじめる
まあたらしい
この
春のなかを

東京・杉並
峯澤典子