3月2日(火)

すごい雨で沈丁花や、やっと咲き始めた木蓮が散ってしまわないか心配。
いつもは自転車でいく駅までの道を歩くと、街路樹の根もとにいつのまに、ナズナやヒメオドリコソウが咲いていたことに気づく。タンポポも一輪、咲いている。
帰りに渋谷に寄ってaikoの新しいアルバムを買う。特典でノートがついてくる。レコード店ごとにそのデザインが異なり6種類ある。タワレコでBlue-rayつきの初回限定盤を買って、TSUTAYAでCDのみの通常盤を買う。ノートを2冊入手する。良い詩を書きたいとおもう。
20年以上のながきにわたってaikoのうたを聴いている。変わらずほぼほぼ恋愛のうたのみを、その機微を、微に入り細を穿ち描きうたいつづけている。
西脇順三郎の詩集『旅人かへらず』の「はしがき」にこんな一節がある。
「自然界としての人間の存在の目的は人間の種の存続である。随つてめしべは女であり、種を育てる果実も女であるから、この意味で人間の自然界では女が中心であるべきである。男は単にをしべであり、蜂であり、恋風にすぎない。」
引用部分だけだと時代遅れな二項対立ととられかねないが、西脇は自らの(そして人類のだれしもの)内に女性と男性とがあり、この詩集は(というかおそらくどの詩集も)自らのうちなる女性による、詩のことばによる生の記録である、というようなことをいっているのだとおもう。
aikoのうたもまたここでいう「恋風」のようなもので、「必然的に無や消滅を認める永遠の思念」(同じく西脇の「はしがき」より)をはらんだ、人類の存在の普遍的な寂しさにふれた、うたたちなのだとおもう。
西脇の「はしがき」の、先に引用した部分の前には、
「路ばたに結ぶ草の実に無限な思ひ出の如きものを感じさせるものは、自分の中にひそむこの「幻影の人」のしわざと思はれる。」とある。
道ばたの花のように、あるいは花をゆらす恋風のように、われわれの日常のかたすみに寄り添い彩る、aikoのうたたちである。

東京・冬木
カニエ・ナハ