2月8日(月)

今日こそ円盤に乗る派の公演に行けるとおもって千秋楽、チケット予約しようとおもったら昨日、前日の24時迄だったのだった。
あきらめて、昨日スパイラルでやってた「無言に耳をすますパフォーマンスフェスティバル『ZIPPED』」リアルタイムで見られなかったのでストリーミングでみる。
冒頭アナウンスで「できれば部屋を暗くして見てください」とあるが朝なので暗くすることができない。
百瀬文さんのは去年葛西の展示で見たやつだ。それの新バージョンとのこと。あれももう一年くらい前だ。まだコロナがあれじゃなかった。
石川佳奈さんのは石川さんが能をおもわせる無表情のお面かぶってどこからともなく聞こえてくる言い差しの声たちに反応するともなく反応している。
彼女から声が発せられることはなくどこからともなく聞こえてくる言い差しの顔のない女らや顔のない男らのいくつもの声たちを聴いている彼女が私であるような心持にもあるいは言い差している顔のない声の主(のひとり)が私であるような心持にも次第になってくる。
村社祐太郎さんの無言劇ではひとりの女性がもくもくとテーブルのようなものを組み立てている。
無言であるためにそれを観ている私のあたまのなかの声ばかりがあたまのなかで聴こえてくる。
テーブル面にあたるところが透明なアクリル板のようである。
テーブルとおもいこんでいたがパーテーションだったのかもしれない。
いずれにせよ、組み立てられたそばから解体されてしまう。水平にされることなく垂直のまま。
それでたいそう宙ぶらりんなきもちになる。
そうしている間にあたまのなかで声にならない、なにかが組み立てられ解体されたのだった。
あれらはいったいなんだったのだろう。
よくわからなかったのだけど、いずれもいまの空気の一断面を鮮明に舞台化しているように感じた。
ナマで見たかった気もするが、モニター越しであることもまたいまの空気の一断面であり、モニターというのがそもそも空気の一断面であるのかもしれない。
依頼された帯文の執筆のためゲラを3周目にメモしながら読む。
ちょうどひと月前、デヴィッド・ボウイの誕生日(1月8日、その二日後(1月10日)には5周忌をひかえていた)からボウイのスタジオアルバムを1枚目から順にすべて聴きなおす、ここに合わせて最近出た「ロッキング・オン」と亡くなったころ出た2016年の「Pen」と「ユリイカ」のボウイ特集等をかたわらに置いて、というのが2周目のベルリンまで来て、今日は山本寛斎さんの誕生日で、亡くなって初めての誕生日で、「ユリイカ」で寛斎さんがボウイについて語っている声を聴く。おなじくボウイを手がけられたスタイリストの高橋靖子さんとの対談。
寛斎さんと高橋さんのボウイをめぐる対談の中で、鋤田さんによるボウイの写真をめぐっての、高橋さんのこんな発言がある(「ユリイカ」2016年4月号)。
「鋤田さんのお写真で仮縫いしている風景が残っていたりしますけど、本当は三人で写っているのにさ、大抵の場合、端のほうにいたわたしが切られているのよ(笑)。わたし用の写真にしか写っていない(笑)。」
その見開きに載っている写真には、ちゃんと三人で写っている。
これを書いているいま、ふと、先日スパイラルで鋤田さんによるボウイの写真展を見たことを思い出して、いつだったかネットで調べてみたら、2014年12月4日~12月9日とあった、つい先日のこととおもったが、まだ生きていたころであった。
そのウェブページに添えられた「ヒーローズ」のジャケットの写真の手のかたちを真似してみる。
すると、いつか国立近代美術館で高村光太郎の手の彫刻のかたちを真似してみたときのことをおもいだした。
その手に、手のかたちにいざなわれるように、わたしはこんどは庭園美術館にいて、有元利夫の絵画を見ている。
その手を凝視している。
「有元利夫の絵の手がすきなの。」と言った。
言ったのではなかった、そうファックスに書いて送って寄こしたのだった。
「手って、絵のなかで、もっとも描くのがむずかしいの。」
「有元の手、すごく好き。」
彼女は耳が聞こえないので手話をつかっている。絵を描いている。
ふだん手話をつかう、そして絵を描くひとが、手を描くのはむずかしいといい、有元の絵の手が好きだという。
有元の絵の人たちの、身体にくらべてずいぶんと小さい手が、ぼやけている。
それは手が能面をつけている、とでもいうようにみえる。
それを書きつけたファックスの文字もまた、ぼやけてしまった。
葛原妙子の全歌集が欲しいのだが手に入らない。近くの図書館にあったのでさっき借りてきた。
おりしも、何か趣味が欲しいとおもっていたところだったので、全歌集掲載の妙子歌を全て写経することを目下の趣味とすることにする。
予約しておいた「新潮」3月号を丸善に受け取りにいく。「創る人52人の「2020コロナ禍」日記リレー」。永久保存大特集とある。ほかのひとたちがどんな日記を書いているのか参考にしようとおもう。
「永久」という言葉にいざなわれて、人類が滅びたあとに、どこか暗所にて、二度と頁をめくられることのない「新潮」2021年3月号の姿を想像する。
ひとの日記を読んでいると、書かれていることよりも書かれていないことによりひかれてしまう。
また、日記を書いていると、わたしが日記を、ではなくて、日記がわたしを書いているようなきもちになってくる。
帰りに日本橋髙島屋の画廊で重野克明さんの銅版画の展示を見る。椅子に座っている女の人の手から鳥が飛びたっていく。つかまえていた鳥を放っているように見える。
その絵は昔、重野さんが高校生だかのころはじめて書いた画をもとにしているという。
他の絵でも、いくつかおなじモチーフが時を経てリフレインされたりしている。
見入っていると重野さんと思しき方に声をかけられるが、ひとに話しかけられることにすっかりなまってしまって、とっさにうまく反応ができず、申し訳ないきもちになる。
そういえば、前回この空気の日記を書いてから今回までの間にスパイラルの向田邦子展を二回訪れたのだが、今日の話ではないので記さない。
しかしそんなことをいったらさきほど記した有元の手の話もボウイの鋤田さんの話も今日の話ではないので削除しなければいけないのかもしれない。
禍のせいかあたまのなかで起こることの比重が大きくなっている。
現在のなかに占める過去が。
「今日」というのがいったいどこからどこまでなのか、わからなくなっている。

東京・冬木
カニエ・ナハ