1月26日(火)

年明け早々、古代のイギリスへ攻め入ったバイキングか
それより何万年か前、氷河のなかで
マンモスを取り囲んで叫んでいた原始人よりも
もっと野蛮な男や女が
壮麗な建物の扉や窓を打ち破って闖入してゆくのを観た。

かと思ったら今度は、奴隷の末裔で、
シングルマザーに育てられたという痩せっぽちの黒人少女が、
長じて、かつてその座に就くことを夢見た場所で、
今その座に就いた男を寿ぐために
詩を読み上げるのを聴いた。

そのふたつは、正反対の光景だったが、
どちらも「we」という主語で話していた。英語の「I」には
誰がなんと云おうと私は私、という強烈な自己主張が感じられるが、
「we」と云った途端、共同体の意識が立ち上がる。
「we」はそれを構成する「I」とも、他の「we」とも対立的な緊張を孕んでいる。

私が住んでいる島国には「we」がない。あるのはただ「私たち」とか
「我々」で、どちらも「I」の寄せ集めに過ぎないが、
その「I」もえてして省略される。自ら「みんな」のなかへ隠れてしまうのだ。
「みんな」は一人称複数のように見えるけど、実は三人称単数で
時に王となり神と化して「私」を圧し潰す。

戦争が始まった時だけは、この島国にも
敵という「外部」が出来て、お陰で「we」が生まれた。「日本人」とか
「天皇の赤子」とか名乗る「we」が。それまで不遇をかこっていた詩人たちは、
「we」の口舌と化す機会を授かって大喜びだった、『辻詩集』。
戦争が終わったら、みな知らんぷりだったけど。

コロナも「敵」ではある。だが人類全体の敵なので、
「we」の方でも身に余るのか、今のところ立ち上がる気配はない。
「I」と「I」の間はスカスカで「不安しかない」し、「頭のなかは真っ白」らしい。
富裕層と貧困層、都市部と田舎、資本と労働力の「分断」は
巧妙に隠蔽されていて、「対立」もない代わりに「団結」もない。

それでも箱のなかのアマオウたちは一糸乱れず整列している。
ガラスの密室に監禁したペットの仔猫の世話をするお姉さんは慈愛の眼差しだし、
アベノマスクで口を塞がれ、Go toのはした金で横ッ面を張られても
国会議事堂へ殴りこみをかける者はひとりもいない。
猫も杓子も「おうち」でほっこり。

パンはひたすら甘い菓子と化してゆき、
「~させていただきます」の連発で語尾は長くなるばかり。
コロナで死ぬより、生き延びて「人に」迷惑をかける方がずっと怖い。
画面越しなら笑顔でメッチャいいを連発しても、
リアルで目と目は合わさない。

組織への所属や所得の階層や消費行動のセグメントはあっても
この島に鬩ぎ合う部族たちの形が見えない。
闘いと祝祭の雄叫びが聞こえない。
そのことが平和の証なのか閉塞なのか、進歩なのか頽廃なのかは知らないが、
「we」のない人生はコロナが何十年も続くに等しいのではあるまいか。

夕方、道路沿いの公園で、大勢の子供たちが飛び跳ねていた。
まるで目には見えない巨きな波が、未来から
打ち寄せてきたかのように、息を合わせて。ただ一つの歌の調べに
身を委ねるように、ある者は笑いながら、また別の者は生真面目に前を睨んで、
同じリズムで跳び上がっては、一斉に屈みこんでいた。

車の中までは届かなかったが、
きっと誰かが、どこかで、数を数えていたのだ
青でも赤でも、白でも黒でも黄色でもない透明な波長を響かせて。
私は、いかなる種類であれ、「we」を主語として詩を書こうとは思わない。
でもその声になら、喜んで私の「I」の弦を共振させよう。

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横浜・久保山
四元康祐