1月8日(金)

TOLTA『新しい手洗いのために』(2020年11月22日発行)の特設サイト
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記載の文章(2020年11月記)に修正と追記を施す。

   

新しい手洗いのために

2020年1月以来、世界史に残る全人類的出来事となった新型コロナウイルス感染症によるパンデミックは私たちの生活を大きく変えました。2020年4月から5月の「緊急事態宣言」の直前から、私たちは仕事や生活のありかたを変えざるをえなくなり、今ではこの感染症に適応した「新しい生活」を呼びかける言葉があちこちに掲示されるようになっています。

移動の自粛、在宅ワークの推進、三密を避ける環境をつくる、大勢が密集する場所ではできるだけ話をしない、大声を出さない。不特定多数の人に会う時はマスクをつけ、触ったものは消毒をする。感染症に対応するためのさまざまな方策がとられると同時に、日々、経済的・文化的な影響が積み重なっていきます。音楽フェスティバルや演劇、芸術祭、同人誌即売会、スポーツイベントなど、人と人が直接顔をあわせ、空間を共有することが前提となる祝祭が長期にわたり中止や延期となり、再開されても以前と同じようにはいかない。家の中からウェブの画面を通じて世界と向きあう時間がいやおうなく増えていく。全体的な変化(外出の際のマスクの装着といったこと)が、個人のレベルにおける変化(トイレットペーパーの数を気にするといった小さなことから、失業などで収入や身分を失うといった大きなことまで)と平行して起きていく。

これらの変化は同時に、2020年までに「できあがっていた」日本社会のさまざまな仕組みを目に見える形であらわにしたように思います。

私たちの暮らし――会社や学校や家庭や趣味の暮らし、そこにはもともとうまく機能していないことがいくつもあります。逆にとてもいい感じに働いて、私たちを豊かに、幸福な気持ちにさせていることもあります。生きるというのは、多かれ少なかれ、自分がおかれた環境に適応し慣れてしまう、ということです。豊かさにも貧しさにも便利さにも不便さにも私たちはすぐに適応し、自分がどんな仕組みによって生きているのか、生かされているのかに鈍感になります。

ところが「新しい感染症」は良くも悪くもこのような従来の仕組みを日々の生活で実感させるものでした。インターネットを通じたコミュニケーションや情報共有はこの感染症の影響で加速したとはいえ、私たちはまだ、新型コロナウイルス感染症によって生まれた「新しい社会」に適応できていません。

2021年1月、政治家の出席する会食には制限が加えられることが検討されましたが、政治家は政治家のあいだではルールを決められないと結論を出しました。会食を制限するルールを決めるなど、たとえこの感染症で急死した現職議員がいたとしても、できるわけがない。政治家には新しい生活様式など不可能だ。この社会では、政治家の判断する、人々の生活をまもるためのもっとも重要な決定は、夜子供のそばにいる父親や母親、ダブルワークで一日中働いている人々、介護のために家から離れられない人々が、参加することはおろか見ることも聴くこともできない、閉ざされた「夜の会食」で行われているのだから。夜の会食ができなくなれば、政治家は政治家の本分を達成できない。政治家は夜に生きる。政治家はけっして感染症にかからない。リーダーシップ! リーダーシップ!

さて、私たちはこの状況のなかで、誰も否定しない本をつくりたいと思いました。

肩こりにはシップを貼るとよい。感染症対策には手洗いをするとよい。感染症および公衆衛生対策の基本は「接触の管理」にあります。そのための基本的な方法は「手を洗うこと」です。新型コロナウイルスCovid-19においては飛沫感染を防ぐためのマスクが重要とされていますが、はっきり目にみえる一方で顔の大部分を隠してしまうマスクの装着は、文化や体質によってなかなか受け入れられないこともあります。一方で、手洗いはほとんどの場合、目にみえません。手洗いは他人にアピールする行為ではなく、自分自身で完結する行動です。

多くの場合視覚優位な生き物である人間は、とかく、目に見えるものから問題にしがちです。しかし私たちの目は顕微鏡ではない。多くの場合洗った手も洗っていない手も私たちには区別がつきません。だからこそ私たちは、手洗いについて考えることにしました。
『新しい手洗いのために』は、手を洗うという行為についての叙事詩です。手を洗うためのハウツーであり、手を洗うことの歴史であり、手を洗うことの物語です。

東京・つつじが丘
河野聡子