11月29日(日)

殺されて捨てられた女の子の詩を書いたことがある
わたしが〈殺された女の子〉だった可能性をいつも考える
この世のあらゆる場所で殺されていく女の子たち、
4歳で殺されたあの子も、13歳で殺されたあの子も、19歳で殺されたあの子も
わたしだったかもしれないとおもう
わたしのなかには何人もの〈殺された女の子〉がいて
このわたしが生きているのはたまたまなんだってかんじている
たまたま殺されずに生きてきて
今こうしているけれど
先週
64歳で殺されるのかもしれないって思い始めた
帰る家を失って
夜半にバス停の固いベンチでようやく休んで
横たわることをゆるさないベンチだから座ったまま浅く眠っている間に
ペットボトルだか石だかを入れたどこにでもあるビニール袋を
振り上げた知らないひとに
虫を振り払うみたいに殴られて11月16日に死んでしまったのは
わたしなのかもしれない
だって
幡ヶ谷なんてすぐ近くじゃないか
彼女もわたしも四捨五入すれば60歳ほとんど同い年じゃないか
今のわたしにはたまたま住むところがあるけれど
何かあれば失うのはたやすい
ひとりになってしまうことだってすぐ想像できる
感染症は春から流行りだした
フリーの仕事なんていつ全部なくなってもおかしくない
どうすることもできないまま夏を過ぎ
お金は使い果たしてもう8円しか残っていない
疲れ切って冷えた体で
助けてくれるかもしれない誰かに連絡する気持ちも萎えて
そこに座っていたのはわたしだったんじゃないか
痛い11月の夜の底に殴り倒され
わたしはサイゴノアサに何を見たのだろう
壊れていくのはわたしか世界か
終わりは解放だっただろうか
ねえわたしを殺したのはいったい誰?
ビニール袋を振り上げたあの知らないひと?
そうだけどきっとそうじゃない
10月のうちにわたしがバス停を通りかかって
わたしかもしれないあなたを見かけて気になったとしても
たぶん何もしなかっただろう
できなかった
わたしも
わたしを殺したんだ
わたしは殺された女の子で、殺された女の人で、殺したなにものかの一部だ
寒い12月がくる

東京・神宮前
川口晴美