9月22日(火)

目が覚めて、LINEに温度感の高い仕事の話が来ているのに気がつく。午前中は「日記」の制作。昼頃に中華料理屋へ行って、麻婆豆腐とビール。追加で餃子とハイボールを注文する。奥に座っていたおばあさんが、炒飯を半分残したお皿を持ってレジに向かう。店員の人が、――いつもありがとうございます! といって、おばあさんを見送る。しばらくして、おばあさんが空になった皿を持って店に戻ってくる。
高校の同期からLINEが来て、多磨霊園に集まることになる。産休で休んでいるべつの一人にも声をかけたという。急いで家に戻って風呂に入る。元TOKIOの山口達也が、酒気帯び運転の疑いで逮捕される。待ち合わせにニ十分遅れることを連絡すると、――なんもない駅だよ、と返事が来る。新小金井駅に着くと、本当になにもない駅で、旅行に来たような気分になる。同期の記憶を頼りに道を歩くと、公園が見えてくる。
――(同期)虫いたら帰るからね。
――(作者)あいつ(もう一人)いつ来るの?
――返信来なかった。てかさ~、コンビニどこにもないじゃん!
――え、なんも持ってきてないの。
――マクドナルドでポテトのL買ってきた。しおしおになったやつ食べる。
しばらくして、多磨霊園ではなく野川公園であるのに気が付く。川に入ってなにかを採取している親子や、犬を連れて散歩している人が目立つ。遠くで、白い人間が四つん這いで歩いているとおもうほど巨大な犬を連れて歩いている人がいる。テントを張っている人も何人かいる。――これから雨ふるのにけっこう人いるね、とつぶやくと、同期が露骨に帰りたそうな顔をする。曇り空と青空が均等にまざったような空で、あまり見ない天気だとおもう。コンビニを探して歩きまわっているうちに、多磨霊園とは完全に逆方向の道となり、武蔵野の森公園をめざすことになる。
コンビニでお酒とつまみを買って、空を見上げながら歩く。武蔵野の森公園に着いて、調布飛行場を横目に見ながら芝生のある場所を目指す。遠くで飛行機が何台も並んでいる。蝉が弱々しく鳴いている。ミヤシタパークの屋上で見かけた看板がある。さっきよりも犬の数が格段に増えて、すれちがいざまに近寄られる。自転車に乗った子どもが、――気をつけてください、自転車に乗っています、といいながら去っていくのが、同期のツボに入る。芝生のある広場に着く。レジャーシートを広げて酒を飲む。遠くの木の近くに座っていた子ども二人が、交互にこちらの方に走ってきて戻っていく。途中でやたらと大きい人が走ってきたかとおもうと、おそらく二人の父親らしく、同期のツボに入る。フリスビーを飛ばしあう二人組がいて、片方のコントロールの良さに感動していると、もう片方がどんどん公園の奥へと離れていく。そのうち、数百メートル単位の距離でフリスビーを飛ばすようになり、同期のツボに入る。ゆっくりと暗くなってきて、あたりをコウモリが飛び交うようになったので、公園を出ることにする。同期がトイレに行っているあいだに、残ったハイボールを飲む。足もとでビニール袋がガサガサと音を立てている。生ゴミといっしょに閉じ込められたネズミが、袋を食いやぶって顔を出していた。袋を足で動かすと、ネズミはすこしだけ身をよじり、空を見つめたままガサガサと足を動かすだけで、逃げずにいる。帰るまでに雨がふらなくて、よかったとおもう。
「日記」を完成させて、後輩(添削担当)に送る。前回の「日記」を掲載した日から今日までのあいだで、カレーを食べた日に起きた出来事について書いたもの。後輩から、作中に登場する「みんなのミヤシタパーク2」(注:9月13日にミヤシタパーク前で行われたデモについての詩)内の引用部分に関する確認と、それとはべつの箇所で、プライバシー保護の観点からいくつかの指摘をもらう。数日にわたって書いたので、題名を「9月22日(火)へ」に変えて、松田さんに送る。酒を飲んだせいで眠くなり、一時間ほど寝る。しばらくして、松田さんから原稿の再考について返信が来る。
・「日記」は《昨日でも明日でもない、今日の空気の記録》を主題として参加を呼びかけた企画であり、それについてはこだわりたい
・数日にわたって書くのも感覚的に理解できるが、記述の時間の幅があると、他の担当者と重複する部分が出てくる
・(注:数日にわたって書いてしまうと?)全体がばらばらになっていく感じがあるので危うい
・今回の「日記」が「前回の日記の空気」をそのまま引き継いで書いていて、《今日の空気》とはちがう力点が置かれている
・そういうところがタイトルの表記にも出ているとおもう
まとめは作者の判断なので、誤解がある可能性は否定できないものの、以上の理由から原稿を再考してほしい、といわれる。他にも同様の依頼をして、再考を許諾してくれた人がいるらしい。素材を増やすために、できる限り毎日カレーを食べていたことを後悔する。
後輩(添削担当)にその旨を連絡すると、笑いながら電話がかかってくる。
――(後輩)あ~、そんなのあるんだね。よかったじゃないですか! 検閲を受けたって書けますよ。
――(作者)怒られるかな。
――だめだったら欠番になるだけなんじゃないですか? やりにくい詩人だとは、確実におもわれるでしょうね。
――え~、嫌なんだけど。
――やりやすい詩人になりたいなら書くのやめたら? だいたい、日付割り振られてるのにカレー食った日のこと何日も書いて、おかしいとおもわないのがおかしいとおもいます。
べつのところから、ひと月寝かせていた原稿の催促が来て、対応する。
――(後輩)今回の「日記」についての話は、日にちの問題もそうですけど、「《今日の空気》が入ってない」と暗にいわれてしまったところがいいですね。
――(作者)《今日の空気》って、もうすこし日にち的な幅があるとおもってたんだよね……。
――べつに日数の問題をいわれてるわけじゃなくない? 《今日の空気》が強く感じられていれば、もしかしたら問題なく載ったのかもしれない、とかね。ちょっと話題ズレますけど、情動が政治的判断と密接に関わってくる感じが、かなり興味深いとおもいました。日記っていう表現形式のあり方も含めた話で、テキストが真偽の区別を破棄した次元で成立し、人間の情動を駆動させる装置として用いられるという事態について考えさせられましたね。これは政治的状況に向けて語られるタイプの議論ですが、けっこう抒情詩の問題でもあるとおもうんですよ。表現形式としての日記から、詩の話にもつなげられる気がしています。
今年はたぶん類を観ないほどたくさんの日記が書かれた年です。それはコロナの流行がなかったら起きなかったことなので、一平さんが前に書いていたことですけど、コロナとの「共同制作」なんですよね。いろんな書き手による日記がいろんな媒体で発表されましたが、そこでは基本的に「その日に起きた出来事」が連続して書かれてあって、実際にかなり事実らしく読めるものが多い。でも、読み手はテキスト内部の情報に対する真偽の判断以上に、その「事実らしきもの」をとおして語られるものに注目してしまう。そのうちのひとつとして、「今・ここ」みたいな特定の場所と時間を伴った記述がもたらす、同期性を伴った抒情的な知覚が挙げられるとおもいます。つまり、《今日の空気》ですね。とはいえ、これは当たり前の話で、もともと日記は書き手自身のために書かれるものとしてあって、そこで日記は何ごとかを忘れないために、もしくは思い出すために書かれます。言い換えると、日記を書くことはそれを読んで思い出す過程、想起という行為が強く関わってくる。事実がそこに書かれてあることは必ずしも必要ではなくて、感情的な言葉だけがひたすら書かれていてもいい。そこには日付とのセットが重要な意味を持つのはいうまでもありませんが、想起が日記という表現形式の成立において不可欠な要素であるのなら、日記は記述から喚起される行為や感情の方をむしろ主題としている。
ところで、この日記から完全に事実らしさへの装いというか、真偽の区別の判断を働かせる要素が完全に取り除かれたとき、その表現はおそらく抒情詩に近いものなのではないかとおもっています。だからこそ、最初に話した「真偽の区別を破棄した次元で成立し、人間の情動を駆動させる装置」としてのテキスト、について考えたくなったわけです。日記をめぐる話から、なにかを引き出せる気がしましたね。なんというかここしばらくのあいだ、みんなで思いおもいに詩を書いて興奮してるんだな~って。
――(作者)後半に関していうと、オレが前に飲み会で話したことと重なってる気もするな~。今はまだ、うまく断言できないとおもう。
――(和合亮一)いいのか 無かったことにされちまうぞ※
――(作者)正直、デモの詩は載せたかったな……。
――(後輩)どこかべつのところに載せたらいいんじゃないですか?
「日記」用に書いたテキストを削除して、深夜まで今日の出来事を書き起こしながら、ZOOMの打ち合わせに参加する。半分酔っぱらっていたので、余計な発言をしないようにミュートをしながら議論を聞く。後半で発言できそうな話題が出てきたので発言すると、そもそも参加していたことに対しておどろかれる。
※書き直し前の「日記」で引用していた和合亮一(@wago2828)のツイート。
(https://twitter.com/wago2828/status/1306948885495963649、2020年9月22日閲覧)

東京・高田馬場
鈴木一平