9月5日(土)

半年ぶりに美容室へ行った
消毒がしづらい紙の雑誌のかわりに
指紋をすぐに拭きとれるタブレットが鏡のまえに置かれている
客がひとり帰り
椅子とタブレットは念入りに消毒された

美容室の帰りに
外で食事をすることにした
目当ての店に着くまでに
いくつかの閉店のお知らせに気づく

ほかのひとから離れて座り
じぶん以外のひとが茹でたパスタを
数か月ぶりに食べる
客がひとり帰り
椅子とテーブルは念入りに消毒された

コーヒーを飲みおえるまで
だれとも目をあわさず
今朝 なんとなく鞄に入れた
リルケの『マルテの手記』をひらく

「詩はほんとうは経験なのだ。一行の詩のためには、あまたの都市、あまたの人々、あまたの書物を見なければならぬ。あまたの禽獣(きんじゅう)を知らねばならぬ。空飛ぶ鳥の翼を感じなければならぬし、朝開く小さな草花のうなだれた羞(はじ)らいを究(きわ)めねばならぬ。まだ知らぬ国々の道。思いがけぬ邂逅(かいこう)…」(大山定一訳)

いま 生きるためには
生きのびるためには
あまたの経験の痕跡は消され
念入りに消毒されなければならない

でも きっと
こんなに手際よく
なにかの
だれかの
わたし自身の
痕跡を
ひとつ 消してしまったら

わたしの感情には
見えない傷が
ひとつ 残ってしまうだろう
もし痛みだしたとしても
永遠に知られないままの

わたしがさっきまで座っていた椅子もテーブルも
念入りに消毒されてから
家に帰ると
おおきな梨が詰まった箱が
しばらく会えないひとから届いていた
傷はありますが甘いです、という手書きのメモとともに

皮をむきながら
かすかに傷んだ跡に
くちをつけると
澄んだ涙のような
蜜の香りがした

痛みだす日を
たしかに知っていたころの

東京・杉並
峯澤典子