8月25日(火)

          前を歩いていた女の素足からヒールがすっぽ抜けた。コロナでなければ、踵の紐を摘み上げて手渡してやっただろうか? 福岡発羽田行きスカイマーク 018。灼熱の地上どこ吹く風の雲の上への天の浮橋。女がしゃがみ込んで奪い取るように手を伸ばした。鋭い目力。マスクの下から、かすかな舌打ちの音が聞こえた。

                        薄墨を引いたような空の波にそそり立つ水の断崖が、バラ色に染まっている。あの下でゲリラ豪雨の瀑布が虹を浮かべている?丸い窓の向こうをどんなに覗きこんでも、触れることはできない。実存のディスタンシング。生は彼方に(クンデラ)。いつだってこの小窓を覗き続けてきた気がする、詩を書き始めるずっと前から。

    また見ることのない山が遠ざかる。膝の上を托鉢の乞食僧が歩いてゆく。彼にとって、山は絶対的な他者であり、永遠に辿り着けない外部であり、放蕩に身を滅ぼした父であった。水は雨、波、涙、酒、尿(しと)など様々に変容しながら彼を包み込む。人のために時雨れて仏さま。ちんぽこもおそそも湧いてあふれる湯、は羊水の喩か? 彼の母は彼が十一歳のとき井戸に身を投げて自殺した。

                両肺に水が溜まって餓鬼の海。妻が通販で買った父の故郷の海の写真集を、病室のベッドテーブルに残してきた。今頃はもう目を覚まして気づいただろうか。あれくらいの重さでも、持ち上げようとすれば痛みが波立つのだろう。心の床に寝たきりの阿弥がいて。その父は実際に会って手で触れることのできる父よりも濃い、と思う。そこにない実体の影を喰い。手に届かないというそのことで、却って何もかもが鼻先へと迫ってくる。もう抱くことのない女が服を脱ぐ。

    真空は空っぽではありません
    真空のなかには波紋がいっぱい
    驟雨のシュテルンベルガー湖の面のように
    沸騰刹那の鍋底みたいに

    真空は待っています
    場が笑い出して
    時の泡粒が一斉に励起するのを
    世界が愛で重くなるのを

                           翼の先に、 Fuji-yama! いまやすっかり色を失ったダークグレーの屏風に、巨大な影が幽玄している。 いや、有情かな。ほかの乗客たちは誰ひとり顔を上げない。通路を挟んだ隣の男と、その前の男がそっくり同じ姿勢で携帯の画面を覗きこんでいる。まるで右スピンと左スピンの素粒子のペアのようだ。何を見ているのだろう。板一枚下の奈落の薄明かり。みんなして心あわせて、南海トラフにでも呼びかけている風情。ほうホタル破滅飛び交う岸辺哉。

    どす黒い大蛇が富士の裾野を滑り降りて、都心の瞬きのなかへ入ってゆく。座標軸に浮かび上がる欲望のプレーン。不死を得るには大き過ぎ、永遠を俯瞰するには小さ過ぎる我らのスケール。時間だけがまっすぐ前に進んで、空間は錐揉みしながら斜めに押し流されてしまう。ジグザグ。三列先の座席の端から、こんがり焼けたノースリーブの肩がはみ出している。ジグザグジグ。ヒールを飛ばしたあの女だろうか。なんという丸みだ。ザグジ。齧ってやりたい。

注:太字は種田山頭火の句。

機中にて
四元康祐