8月9日(日)

隣の人が拠点を地元へ移すことになり、大学の同期と後輩を呼んで退去の手伝い。隣の人の家族がトラックをアパートの向かいに停める。持ち帰る家具を荷台に積んで、捨てる家具は大家の駐車場へ運ぶ。右手が使いものにならなかったので重い荷物を二人に任せて、代わりに部屋の片付けをする。壁紙の一部がはがれかけていて、中に絵はがきが刺さっている。本棚には語学と演劇の本が多く、気になるものをいくつかゆずってもらう。お昼から始めて夕方頃には作業が済んだ。食事をごちそうになり、隣の人が思い出を話し始める。あの部屋に十三年ほど住んで、人生の三分の一近くをそこですごした計算になる。もともとは女性専用のアパートだったのに、鈴木さんが引っ越してきておどろいた。たまに大家さんに呼ばれて、鈴木さんや前に住んでた○×さんとご飯食べたけど、東京に来てそういうご近所付き合いするとはおもわなかった。一回だけ、鈴木さんとだれかがギター弾きながら大声で歌ってて、苦情入れたことがあったけど。それはたぶんオレですね……と同期がいった。
――(隣の人)あ~、鈴木さん朗読してくださいよ。
――(作者)え!
――詩を書いてるって、前に大家さんから聞いたんです。
――(後輩)一平さんとこの大家どうなってるんですか?
しばらくして、書きかけの詩を朗読させられる。

   だ れか きて  わ  か ら
夜道の人に冷夏の帰路が、忘れる体を分からせて
な   い  す が     た    で
空が指を組む、砂を固めてつくる種、わるい芽を
         ね    が  う
つんで、鳴きながら家の屋根を描く、向こうでは
ぴ  た り    と  や む
冷えた石の裏を流れる息が、鳥の影を引き受けて
      あ め    を ね じま げ
矢印のように草を打つ、その奥で眠る地面に手を
         る  あ お い
ついて、古い器に、溶いた雨の色を重ねていくと
           か  ら     だ
あたらしい器ができる、忘れる体が、それを叩く

隣の人が帰ったので解散し、三人で周辺を散歩。道に迷って、見つけたラーメン屋に入る。カウンター席が少なく、代わりにテーブル席が四つある。店主はずっとニコニコしていて人当たりがいい。和服を着た女とスーツ姿の男が入ってくる。女は四十すぎ、男は還暦を迎えたぐらいの年齢に見える。店主が注文を取りに来る。女が手慣れたような感じで、――フルーツとジュースをください、と答えると、店主がよく冷えたリンゴとメロンを切り分けて、瓶に入ったオレンジジュース(?)といっしょに持ってきた。
――(後輩)どういう店?
――(同期)思い出した。なんかさ~、オレもこのあいだ飯食ってたとき、へんなことあったんだよね……。
五月の半ば頃、同期が昔のバイト仲間と三人でお酒を飲みに行った。二軒目がビルの地下にある、こじんまりとした居酒屋だった。あるとき、飲んでいたうちの一人(Aさん)と、おなじタイミングで外のトイレに立った。入るときは気がつかなかったが、トイレの脇にガシャポンが並んでいて、全部の機体が白いガムテープで隠されていた。中に景品は入っているらしく、なにが入っているのか確認しようとしていると、Aさんがトイレから出てくる。二人で席に戻る途中で、席で待っているもう一人(Bさん)についての話をする。
――(Aさん)ずっと彼氏できないんだって。
――(同期)そうなの? いらないとおもってた。
――なんか、あんまり続かないらしい。前に、どうしたらいいんだろうね~っていわれて、自信がないんじゃないかって。だから、自分を好きになることから始めるって。
――筋トレでもするのかな。大事な話だね。
――でもさ~それ、だれでもいいから人殺したいっていって、自殺するのといっしょじゃん。
すこし考えて、全然ちがうのではないかとおもった。そのとき、向こうから人が歩いてくるのが見えて、それがBさんであることがわかったので話をやめた。あいさつをしてすれちがい、同期が振り向くと、Bさんはその場に立ち尽くしたまま首だけをこちらに向けて、じっと二人を見つめていた。話を聞かれたかもしれない。煙草を吸いにいくふりをして、店に戻らず地上に出た。すると、Bさんもうしろをついてきたのか外に出てきて、見向きもせずにそのまま闇のなかに消えていった。
ラーメン屋を出て、通りを迂回して住宅街に入る。暗闇のなかから緑色のフェンスが現れて、向こうに小学校のグラウンドが見えた。小学校の輪郭に沿って道路がのびている。角を曲がると、街灯の下でうごいている影があった。
――(後輩)蝉いますよ! グラウンドの土から出てきた蝉の幼虫が道路を横断しようとしていた。表面がぬれたように光っている。三人で蝉を囲うようにしゃがんで観察していると、後輩が急にマスクを外して、無表情で移動を続ける蝉の目の前に敷いた。マスクの上に乗ったので、近くの木まで運んで、蝉を幹のくぼみに引っかける。落ちないように下に手を置いて待っていると、上に向かって登りはじめた。後輩がマスクをつけ直す。
――(同期)えっ、蝉に使ったマスクまたつけるの?
――(後輩)さすがに大丈夫でしょ~七年自粛してたら!
コンビニで酒を買って、飲みながら三〇分ほど歩くと駅に着いた。行き先が同じらしい二人についていって遠回りする。次の電車に乗り換えたあたりで記憶を失い、気がつくと終電がなくなっていた。

東京・高尾
鈴木一平