6月28日(日)

数日前から、ノートパソコンをMacに変えた
そこにOfficeを入れて、この日記もWordで書いている
マウスでスクロールするのがWindowsとは上下逆、よりも戸惑うのは、
キーボードで入力する時の予想変換がシビアだということ
シビアというのは、キーを一つでも間違えると、書きたい単語が選択肢に上がってこない
きびしいな、わかるじゃん、文脈で、と思う

そこで気づいたのは、仕上がりとか、
磨き上がりみたいなものへのイメージが変わっていたこと

なんとなくとか、似たようなもので済ますことが、いやじゃなくなっていた

最近(オンライン朗読会で)知り合った中欧や中東や東南アジア詩人たちの投稿をFacebook翻訳で読んで、不自由を感じない(これは人に言わない方がいいのかもしれないが)
自分が雑になったといえばそれまでなのだけれど
そもそも発音すらわからない、遠いところにある言語の詩を、一秒で読めるのだから、そこにあるのが「古い歌」という言葉で「失われた夢の道を歩くとき」※と言っているのだから、それでいいではないか、というような気持ち

SkypeやZOOM越しの出会いの数々は、もどかしさよりもむしろ、
液晶の向こうにいる世界各地の人たちの暮らしぶり、部屋の様子に飽くことなく惹かれて、
その小さな窓の向こうの息づかいにチューニングしようと
自分の気配を澄ませてきた
不自由さの代わりに与えられたのは、
液晶の向こうにある、たくさんのスープのようなもの
人の家に入ったばかりの時のような、かぎなれない匂いがして、
部屋の、家の、家族の、その人の味がして
それはみんな食べやすくて、体にいい
名前をきいても、きっと答えられないスープ

日々の食料品も、近似値で進行している
食べたいものよりも、数日おきに夫がスーパーに行ってくれるので、
野菜売り場や肉・魚売り場、お菓子売り場なんかの映像を思い浮かべ、
たぶんこれがある、と予想してメモを書いて渡す
しかも人に頼んで買ってもらうわけだから、なければしょうがないし、
似たようなものでもO K!となる
お花を買ってもらうのも、自分で選べないから、かえってどんな花がやって来るか、くじ引きやおみくじみたいに待っていた

とても多くのものを、家にいて、へだたりの向こうから
遠い山の電気を届ける鉄塔みたいなものをいくつも介して
手に入れてきた
届くのがたとえ、どんぴしゃではなくて似たようなもの、であっても
それは怖いものから守られるためにしていることだから
綿のように暖かい

そういう暮らしに慣れていたことに気づく
でも、自分に対しては、その綿のやわらかさを生かせない

今日は一日中、期限が迫って書かなければいけない仕事の量に弱っている
自分に対する要求や、人には見せられない矜恃みたいなものは
人々や世の中への適応よりも遅い
動きにくくなった体で、ここまで行かないと、これくらいはできないとと
バージョン遅れかもしれない古い期待をかけている
アップデートのアイコンはどこにも見つからない
自分の外の流れと内の流れが、一つにならない潮のようにずれている

※クロアチアの詩人、Ivan Španja Španjićさんが6月28日(日)午後10時過ぎ(クロアチア時間では日曜日の午後3時頃)に投稿した詩の一部

千葉・市川
柏木麻里